めくるめくメルク丸

ゲーム/哲学/人生

The Catcher in the Weather〜帆高と僕らは何を「キャッチ」したのか?

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『天気の子』を観た。 

すでに数多くの批評文やレビューやら感想文が上梓されている現在、拙文をここに上げるのに少々躊躇したが、結局、上記のような切り口で書いてみようと思ったのだった。

『帆高は何をキャッチしたのか?」それについて考察してみることは、とりもなおさず、新海誠が本作において掴んだ(はずの)「何か」について思いを馳せることでもあるだろう。そしてそれはおそらく、J.Dサリンジャーの有名小説を踏まえた上での「キャッチ」であるはずだ。

序盤、東京湾岸へ向かうフェリー船上で主人公・森嶋帆高の傍らに置いてあったペーパーバック。

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

 

新訳版『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(旧翻訳版は『ライ麦畑でつかまえて』)。 アメリカの偉大な作家J.D.サリンジャーによって1951年に世に放たれたこの青春小説のマスターピースが、本作の冒頭で2度映される。
家出少年である帆高が「家出少年」のアイコンとも言うべきこの小説の主人公、ホールデン・コールフィールドに自らを重ねていたことは想像に難くない。
本作にこのあまりに有名すぎる小説を出すことは「ベタすぎ」と受け取られる危険をも充分に孕んでいる。これまで、古今東西多くの読者たちがこの小説に少なからず自分を重ねてきたことをここで子細に述べる必要はあるまい。ビル・ゲイツやジョン・レノンを狙撃した殺人犯マーク・チャップマンが愛読者だったことも広く知られている。

無論、その「ベタすぎ」には新海誠監督も自覚的だったことだろう。

なぜ、今作の冒頭で『キャッチャー』がわざわざ2度までも(それもいささかわざとらしく)クローズアップされなければならないのか? 個人的に、ここに引っかかるものを感じた。

だが、もし『天気の子』という映画が『キャッチャー』の「新海誠流語り直し」であるとしたら——あるいは物語の根幹に流れる主題を担っているとしたら——この小説を「ベタな小道具」として片づけるべきではないだろう。そこに「いかにもこの小説を読んでいそうな家出少年」というキャラクター造型以上の役割——作者のメッセージが伏流していると見ることはできないだろうか?

以下(いささか強引なのは承知で)、『天気の子』は現代に生きる少年少女と60年近く昔の文学作品『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に生きる少年少女を意識的に接続した物語であると仮定して、ふたつを同じ俎上に乗せて考察してみたい。

 

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公、ホールデン・コールフィールドは齢16歳で退学処分となり、家に帰ることもできないまま大都会・ニューヨークで「地獄巡り」をする羽目になる。安ホテルで売春を斡旋する男に暴打され、路上で夜を明かし、安いサンドイッチで腹を満たす。
『天気の子』の主人公、森嶋帆高も学校と家庭を捨て(ようと試み)、彼にとっての「社会」から逃亡したやはり16歳の高校生である。そして『キャッチャー』を愛読していた帆高は、序盤ホールデンとほとんど同じような体験を辿る。安宿に寝泊まりし、売春男に殴られ、ビックマックを貪る。

 

『キャッチャー』の主人公ホールデンには長男(D.B)と妹(フィービー)と故人の弟(アリー)がいる。帆高に兄弟姉妹がいるのかどうかは本作では描かれていないが(この作品では帆高の生い立ちや家族構成などの描写は意図的に省かれているので)、ひとまず彼をとりまく主な登場人物たちに着目してみよう。

上京後の帆高を世話(あるいは利用)しようとする男・須賀圭介と天野陽菜、陽菜の弟・凪(なぎ)。この3人を『キャッチャー』における3人の兄妹弟的役割に当てはめてみると、両作の相似性がさらに浮かび上がってくるようだ。

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「あいつは僕よりもずっと賢い子だった」ホールデンが自身の弟についてそう回想したように、陽菜の弟・凪は帆高にとっては「精神的パイセン」である。実際、凪は帆高よりもずっと頭が回り、都会的で協調性にも富んでいる。

また、かつて「まともな小説」を書いていた、現在はハリウッドに身売りした作家であるホールデンの兄D.Bは「昔は帆高に似ていた」と姪が証言するように、現在は喪失感と諦念にどうにか折り合いをつけながら生きている中年男(さらに「職業的ライター」でもある)に重ねることができるように思う。

そしてヒロイン天野陽菜ーー彼女は帆高にとっての「思い姫」であり、現実に於いて守るべき存在だ。ホールデンにとって最愛の妹・フィービーのように(ラスト、陽菜の実年齢が帆高よりも歳下であることが明かされるのは、陽菜は帆高にとって妹(フィービー)的存在でなければならないから、というのはいささか深読みに過ぎるだろうか?)。

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こうした類似を意識しつつ、『キャッチャー〜』の物語後半のあらすじを簡潔に述べる。

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高校を退学になり、寮を飛び出したホールデン・コールフィールドは大都市ニューヨークへ向かう。ニューヨークをさんざん歩き回った後、かつて自分の担任教師だった教師アントリーニ(彼は主人公が成熟して、大人になったような雰囲気を醸し出している)のもとに身を寄せるものの、眠りかけていた自分を触れてきた彼の手に「いやらしさ」を感じ取り、再び街へ飛び出す。

そして1人きりでニューヨークから去ることを決意し、彼を追いかけてきた妹フィービーとも決裂してしまう。だがフィービーに拒絶された彼は再び彼女を追いかけ続け、ようやく辿り着いた公園の回転木馬で妹と仲直りを果たし、降り出した大雨の中で初めて、馬に乗って回り続ける妹を見ながら世界を肯定する。そうして、彼にとっては堪え難かった現実へ戻っていく——

※※※

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』と『天気の子』の設定・物語の類似は、僕にはきわめて意識的なものに感じられる。作者は『キャッチャー』を踏まえた上で、この作品を観賞してほしい。そう言っているように思えてならなかった。

そして物語や設定の表面上の類似性に留まらない、ふたつの作品に伏流している具体的、かつ背骨と成り得るふたつのテーマを無視することはできない。それは、

「キャッチすること」
冒頭、須賀が突然の雨に船上を滑り落ちていく帆高をキャッチするシーンはともかく(笑)、終盤、帆高が陽菜を追って鳥居をくぐった場面を思い返してほしい。彼は陽菜をキャッチしようと大気圏(のような幻想空間?)を落下していた。

「崖から落っこちそうになる子供のキャッチャーになりたい」と願っていたホールデンは、回転する木馬を回り続ける妹が「落ちる」のではないかと憂慮しながら、彼なりの悟りに到達する。「落ちる時は落ちるんだ。でも、手を出しちゃいけない。そのままにしておくべきなんだ」と。

一方、帆高は落下する陽菜をようやくキャッチして叫ぶ。

「世界を変える必要はなかった、僕たちは大丈夫だ——」と。帆高がキャッチしたのは陽菜であると同時に、自分自身の内側にずっと潜んでいた「何か」であったはずだ。そしてそれは現実世界とダイレクトに繋がっている(そのように彼には思えたことがもっとも重要だ)。

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「雨」
『天気の子』で最後に降り出した雨は、現実の雨であると同時に「再生」の雨でもある。その雨は文字通り、1度は世界から失われた陽菜の蘇生を意味する。古来より雨は「死者の蘇り」を意味するものであった。しかし、陽菜を救ったことで人柱を失った世界には世界に被害をもたらす雨が振り続けることになる。そうして東京に戻ってきた帆高が、陽菜と再び巡り合うシーンで『天気の子』は幕を閉じる。

他方、『キャッチャー』は大雨の中で幕を閉じ、主人公が現実世界の病院で過去を回想するエピローグで終わる。どちらの作品においても、主人公が現実を受け入れることを決めた時、世界には激しい雨が降り出し、彼と「世界」は初めて接続するのだった。
そして帆高は、最後に彼にとっての「セカイ」と現実の「世界」を結びつける必要は(実は)ないのだ——おそらくはもっとも深い意識下で——そう得心した。それを「セカイ系」作家による「セカイ」への筆下ろしと捉えることもできるし、『1Q84』冒頭でタクシーの運転手が主人公(青豆)に告げたように、「現実はひとつきりです」といった、新海誠なりの現実を統合するメッセージとも受け取れる。

※※※

『天気の子』とは、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』という偉大な作品に影響を受けた帆高が、あるいは新海誠という1人の少年が通らざるを得なかった壮大なイニシエーションだったと観ることもできるだろう。その通過儀礼は所謂「大人になるってこと」に繋がっているのかもしれないし、あるいは全く「別の場所」に繋がっているのかもしれない。それを決めるのは次作における新海誠の作品でもあり、他の誰かが創り出す作品かもしれないし、観客である我々1人1人の為事である。

個人的には、それが示されるのは「まだもう少し経ってから」と感じているのだけど、その「まだもう少し経ってから感」は、多くの大人に「モラトリアム野郎」と揶揄されるかもしれない。でも、かまわない。僕たちは大丈夫だ。たぶん、きっと。絶対、とまでは言い切れないんだけど。