めくるめくメルク丸

ゲーム/哲学/人生

『サウンドノベル 街 -machi-』発売25周年を機に、その「唯一無二性」を考える(前編)

前口上〜25年前に誕生した傑作ノベルゲーム〜

先月1月22日は『サウンドノベル 街 -machi-』発売から25周年だったらしい(Twitterで知った)。25周年。ああ、軽く眩暈が……。
そう、25年前、自分はたしかにこの作品を発売日に購入し、プレイしたのだった。25年という歳月は冷静に振り返るにはあまりにも重い。重いかどうかもよくわからなくなってしまうほど重い。何しろ、四半世紀である。あれからあまりにも多くのことが変わりすぎた。自分も、現実世界も、ゲーム世界も。

しかし今、このブログを書きながら改めて驚いているのは、25年間という歳月を経ても、この比類なき作品の魅力がまるで色あせていないように思えること。さらに言えば、今なお本作を超える「ノベルゲーム」が自分の内では未だ存在していないように「思える」ことだ。

『街 -machi』とは?

25年前、渋谷センター街に存在していた家電量販店『さくらや』(もはや知らない方も多いかもしれない)で平積みになっていた、黒くてぶ厚いパッケージ(セガサターン版・2枚組CD-ROM)を目の前にあるかのように思い出すことができる。余談だが、このパッケージデザインは本作の売り上げ不信の主たる原因ということになっており、その後リリースされたPS版では、副題も添えられて大幅にリニューアルした。

個人的にはSS版の方が渋いし、ゲーム内容にも合っていて断然好みではあるが、PS版の方が「ポップカルチャー的」ではある(こちらの方が販売本数は高かったようだが、それは当時のPlayStationというハード自体の勢いに由るものだったように思う)。

さておき。『街』に関する詳細な情報はWikiを初めネット上にたくさん書いてあるだろうし、制作当時のエピソードや出演者の現在などもファンサイトに余すことなく記されているだろう。
ここでは25年前に生まれた本作の「凄さ」を、いちファンとして主観的に書き連ねてみたい。そうして拙文を最後まで読んで頂き、本作『街』に無性に触れてみたい、これからでもプレイしてみたい……と思って頂ければ冥利に尽きる(ほとんどそれだけを目的に書いているようなものです)。

サウンドノベル第3作——「頭」としての『街』

140字でノベルなら(無視してください)、自分にとって『街 〜運命の交差点〜』というのは上記のような作品であろう。さらに問うてみたい。

『街』は何故、そのような「マジにぶっ飛ばす」「世界の見え方が変わってしまう」ような力を持ち得たのか?

その答えは、本作が『弟切草』というサウンドノベルの始祖、次に『かまいたちの夜』という名の推理サスペンス金字塔という段階を経て生まれた、チュンソフトの挑戦の結実であるから、という、あまり答えになっていない答えがひとまず思い浮かぶ。言うなれば、3本のサウンドノベルシリーズは「3段ロケット」のようなものだったのではないか。ちなみに『弟切草』が足、『かまいたちの夜』が胴、本作『街』は頭である(一応)。

それでは3段ロケットの頭たる『街』の画期性とはいかなるものだったのか。それを明瞭にするには、"『街』ならではの要素"を挙げるべきだろう。

"『弟切草』『かまいたちの夜』にはなかった『街』の独自性(エレメンツ)"として、

1.実写
2.群像劇
3.ZAP&TIPS

以上の3つを挙げたい。いささか無難すぎるかもしれないし、古参サウンドノベルファンからは異論もあるかもしれないが、ひとまずこの線で掘り下げてみよう。

1. 実写

『かまいたちの夜』では各キャラクターはシルエット(『弟切草』にはシルエットもなかった)、背景はドット絵や取りこんだ加工画像、描き起こしたスチルだったが、『街』ではデジタルカメラで大量に撮り下ろした完全実写作品となった。

本作の発売前画像を見て、我々サウンドノベルファンは期待以前にずいぶんと不安を感じていたように記憶している。

その不安をおおざっぱに言えば、「完全実写になったら、サウンドノベル過去作が有していた、プレイヤーの想像力を働かせてくれるようなマジックが消失してしまうのではないか?」というものだった。おまけに「東京都渋谷区」という現実の街を舞台にした本作からは、前2作が持っていたサスペンス・ミステリー的風味があまり感じられなかったことも大きかった。当時の我々は「サウンドノベル=何らかの恐怖を喚起させてくれるジャンル」というような先入観を持っていたから(『弟切草』も『かまいたちの夜』も、本編クリア後は悪ふざけと親父ギャグの応酬と化すことはさて置き)。

でも、チュンソフトだからきっと大丈夫だろう……我々サウンドノベルファンは不安をいったん仕舞い込み、発売日を祈るような気持ちで待った。

そうしてゲームをプレイし始めてすぐに、不安は杞憂だったと悟った。『街』は多くのゲームファンにとって、そしてサウンドノベル過去2作をプレイしていた我々にとっても、新鮮かつ「未知なるもの」だった。
ここにきて小説でもなく、映画でもなく、コマンドADVでもない、名づけ難い(「サウンドノベル」という名を冠されているものの)ジャンルを我々は改めて認識したのだった。新大陸の発見に相当するようなその衝撃は、サウンドノベル始祖であるSFC版『弟切草』に匹敵、いや、上回っていたようにさえ思う。とくに実写メインのまともなゲームがほとんどなかった(それらはほとんど「イロモノ扱い」だった)当時のゲーム世界において、本作はあまりに大きなインパクトを放っていた。
キャラクター、否、人物たちが実在の街・渋谷に存在しており、「事件・ドラマ」はまさしく「そこ」で起こっていることを『街』において我々はまさに「体験」したのだった。

私ごとで恐縮だが、自分はその頃ちょうど渋谷の大学に通っていたこともあって、あたかも現実とゲームがリンクしているような奇妙で新鮮な「リンク」をひしひし感じていた。通学時、ゲーム内に出てくる場所(センター街や道玄坂)を通るたびに、まるで本作の登場人物が昼夜同じ場所に実在しているような錯覚さえ覚えたものだ。

この「現実世界とのリンク感」は、『街』を語る上で外せない要素だったと今、改めて思う。そこが渋谷だろうと名古屋だろうと札幌だろうと高松だろうと、舞台が(ある種のジオラマ感を携えた)「現実の街」であることが本作においては肝要だったはずである。その"リンク感"によって『街』は我々の現実世界に侵入し、同期した。同期した「そこ」はドキュメンタリーやノンフィクションとは異なる、言わば、現実から半分ずれた世界線に存在する「街」という世界だった。このようなゲーム世界の有り様はAR(拡張現実)のイデアを先取りしていた、とも言えるのではないか。

2.群像劇

本作はこれまでの「主人公の1人称視点」によって進んでいく過去2作とは打って変わって、基本的に複数主人公による三人称視点である。さらには後述するシステム「ZAP」により、彼/彼女らの視点と行動が相互作用する巨大な磁場がゲーム内に用意された。プレイヤーは主人公たちの中から1人を選び、任意の順番で進めていく。このゲームシステムを理解した時、我々はPS版の副題「〜運命の交差点〜」の意味を実感することとなった。

小説や映画で用いられる「群像劇」よりも、本作は現実世界に近しい、本来的な意味での「群像劇」を生み出したと言えるだろう。サウンドノベル第三弾の本作において、我々はいよいよ個々に人生を選び、生きる、そして相互に干渉し合い、それを「眺望する」ことが可能となった。そう、『街』が群像劇であることは物語とゲームシステムの双方が要請したものだった。複数視点の群像劇(的)ノベルゲームはその後も数多く生まれたが、『街』ほど多くのキャラクターの人生を「神の目」において有機的に結びつけた作品は今なお存在しないはずだ(○○があるだろ!と思われた方、ぜひ教えて頂けると嬉しいです)。

3.ZAP&TIPS

上記2つに比べると地味な要素と思われるかもしれない。しかしこの2つの新要素は少なくとも当時としては瞠目に値するシステムだった(2つに共通するHTMLハイパーリンク的ルックも、当時の黎明期インターネット世界をユーモラスに、そして的確に表象していた)。

「TIPS」は現在では多くのノベルゲームに搭載されているが、『街』リリース時、少なくとも僕にとっては——あまりに斬新かつ、画期的だった。某wiki的サイトに書かれていた注釈には「TIPSシステムの考案・実装により、キャラクターは「説明的な台詞を喋ることを回避できるようになった」と記されている。
そう、TIPSとはたんなる「用語解説」に留まらない。それは登場人物に自然な台詞を喋らせる上で必要不可欠な機能であり、ノベルゲームにおける「口語文体」を抜本的に変革したと言っても過言ではない。さらにリアルタイムでTIPSを確認することがゲームプレイに自然に組み込まれている本作は「サウンドノベル」ならではの新しい物語享受スタイルをスマートに提示していた。

他方、「ZAP」は或る主人公でプレイ中、赤く表示されるテキストから、他キャラクターの(同時間帯)シーンにジャンプできるというものだ。本作のゲームシステムにおける抜本的な新規性は、ほぼこのシステムが担っている。各シナリオが分断されている必然性であり、各シナリオを結びつける「紐」のような役割をも果たしていたわけだ。

しかしこの「ZAP」システムは物語・時系列において矛盾なく整合性を持たせるのが難儀だったからか、同社の『428〜封鎖された渋谷で〜』や『弟切草』リメイク版などを除けば、その後のノベルゲームに後継的作品をほとんど生まなかったように思う。本作『街』におけるZAPの完成度が高すぎて、模倣することが難しかったということもあるのだろうが、そこには「時間軸」の存在が抜き難く関わっているだろう。

前作『かまいたちの夜』やその他推理ノベルゲーム/ADVにも時間の概念はあった。しかしそれはあくまで直線的で単体の時間軸に過ぎなかった。『街』は各キャラクター同士を結びつけ、「運命が交差するタイムテーブル」としての絡み合う時間軸を実現させている。本作のように長大、かつリアリズムのノベルゲームにはそのような綿密な時間軸が必要不可欠であることを本作は真っ向から指し示したのだった。(後編に続きます)

次週公開予定の後編では、本作のシナリオ面、ゲーム史的功罪、後継的作品群についてたっぷり書く予定です!