めくるめくメルク丸

ゲーム/哲学/人生

「古典的ADV」がVRで描かれた時、何が起こるのか? 『Deracine(デラシネ)』は『Rez infinite』『Astro Bot』に続いてVRの新しい扉を開いた傑作である

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冒頭から結論めいた賛辞を述べることを許して頂きたい。

『Deracine(デラシネ)』(PSVR・2018年11月6日発売)は古典的ADVが、その姿を留めたまま奇跡的に到達したメルクマールであり、VRで描かれたADV」の最初のマイルストーンとなるべき作品である。だからこれを読んでくれているあなたには、このレビューを読む前でもいい。読んでからでもいい。プレイして頂きたい。心からそう願ってやまない。

何しろ筆者はさきほどクリアしたばかりで、「興奮冷めやらぬ」といった状態であり、まだ頭に血が上っている感は否めない。が、今作がこれほどの傑作となった理由と根拠を、以下できる限り冷静に考察してみたいと思う。

文責/ラブムー

 

『Deracine』に惹かれる、そして実際に手を伸ばすゲームファンの殆どは、筆者と同様、以下に挙げる3つのいずれか(あるいは全て)が購入動機となるのではないだろうか?

①本作が『NEBURA ECHO NIGHT』(PS2)以来、14年ぶりにフロム・ソフトウェアがリリースするアドベンチャーゲーム(以下ADV)であり、傑作Bloodborne(PS4)同様、社長でありディレクターである宮崎英高氏*1がSIE JAPAN Studioとともに手がけた最新作であること。

②本作が「PSVR専用」でリリースされる国内初の本格ADV*2であること。

③本作のプレイ環境が「PlayStation Moveモーションコントローラー2本必須」であること。

①について。

本作と『エコーナイト』『Bloodborneはジャンルもコンセプトも著しく異なる作品であるものの、通奏低音としての類似が認められる。その類似はフロム・ソフトウェア作品ならではのゴシック的アトモスフィアや、耽美的なグラフィックといった、表層的相似点に留まらない——或る作家が生涯持ち続ける「文体の一貫性」のような既視感に近い。フロムファンにとって、本作が上記2作品に深く関わってきた宮崎氏の最新作であることはDeracineに手を伸ばすうえで大きなきっかけとなるかもしれない。しかしファン以外にも虚心坦懐な心持ちでこの世界に触れてみて頂きたい。そこにはVRならではの、唯一無二のADV体験が確かにある。

②も筆者にとって今作をプレイする強い動機となった。

PSVRが発売してから先日で早いもので2年が経ったが、北米ストアでいくつか興味深そうなADVが発売されているものの(『ヒア・ゼア・ライ』など、野心的な作品の数本を国内でも購入/プレイすることができる)、国内外PSVR市場において、本作のような純然たる本格ADVはこれまでに1本もリリースされていないように思われる。PSVRという環境で国産ADVをプレイすることに飢えていたプレイヤーにとって『Deracine』はうってつけの作品となるだろう。

かねてより(その構造によって)「静的」なムードを纏ったADV作品は数多いが、今作は意識的な通奏低音としての「静けさ」に加え、「存在/非存在」の顕在(矛盾した物言いだが)をひしひしと感じさせる。それについて、ディレクター宮崎英高氏の以下の発言は今作を考察するうえで重要に思われるので、ここに引用する。

『Deracine』は)一般的なVRゲームと違い、すごく静かなゲームとなっています。¨実在する¨という感覚と¨実在しない¨という感覚をうまくコンテンツに落とし込めないかなと考えていたところが、本作を作るスタート地点でした。

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キャラクターが確かに「そこにいる」という感覚と、「これは実在するものではない」というアンビバレントな感覚の両立。そしてそこに顕れる齟齬こそがVRならではの体験であると宮崎氏は感じたようだ。

VRに初めて触れた時、「実在感」「非実在感」を同時に感じたという感想は――いささか語弊があるかもしれないが——VR体験者にとっては、意外なほど「まっとうな」所感に響くかもしれない。

しかし、その自然な感覚を最深まで掘り下げ、宮崎氏がVRならではの本格ADVに向かった結果、今作のような「何にも似ていない」オリジナリティに溢れた作品が生まれたことは瞠目に値する。

また、プレイヤーが『Deracine』の世界に実在する子供たちの目からはけっして見えない「妖精」たる存在であり、プレイヤーの居る世界には「時が流れていない」というユニークな設定は、VRでしか入れないこの世界に——「これしかありえない」と思えるくらいぴったりと——馴染んでいる。

Deracineは宮崎氏のVRに対する素直な身体感覚と、氏の持っている独特の時間感覚や過去フロム作品から脈々と受け継がれてきた「死」のイメージを纏ったゴシック的世界観(と言うべきか)が絶妙に結びついたことによって生まれた必然的かつ有機的な作品であると言えるだろう。

PlayStation Move(モーションコントローラー)2本必須」のインパクトも個人的にはかなり大きかった。

販売本数を考慮するなら(無視することはできないはずだ)、たとえ作品の魅力を幾許か損ねることになっても「Dual Shock対応」あるいはPlayStation Move1本でも操作可」といったプレイ環境を実現する方が(SIE JAPANスタジオ・プロデューサー山際氏の発言によると、それも一応は検討されたようだ)、より多くのファンに今作を届けることができるように思う。

しかし、宮崎氏は妥協しなかった。目先の販売本数よりもプレイヤーに本作を充全な形でプレイしてもらうことを選んだ。

「本作はVRで体験できる実在感・非実在感を、テクノロジーの限界としてではなく、世界観に落とし込んだものとして製作しているので、没入していただかないと意味がなくなってしまうと思いました。そのためPlaystation Moveを2本使うことにしました」

宮崎氏はプレスリリースで事も無げにそう語っている。だが、「こと」はそれほど簡単ではなかったはずだ。この発言に宮崎氏の経営者としてよりも、ゲーム職人としての頑なな矜持を強く感じないわけにはいかない。

くどいようだが、「PlayStation Move2本必須」という条件によって今作の購入/プレイを断念しかねないADVファン/フロムファンは(遺憾ながら)相当数いることが想像される。

それでもなお、PlayStation Move2本による操作に拘った宮崎氏の判断は正しかったと言えるだろうか?

商業面における妥当性に関しては門外漢の私には「わからない」というより他ない。しかし、今作のためにPlayStation Moveを2本揃え、最後までプレイしたいちファンとして、私は宮崎氏の判断を「絶対に正しかった」と言い切ってしまいたい。

だから声を大にして言いたい。

もしあなたがPSVR所持者で、このゲームに少しでも興味を抱いているのなら、ソフトとPSMOVE2本買ってプレイするのが賢明だ。

いや、これではまだ足りないようだ。

もしあなたがPSVR非所持者であっても、この作品に対して少しでも興味を持っているなら、PSVR本体を購入してでもプレイするべきだ。

案ずることはない、現在販売中のPSVRにはMOVEが(おあつらえ向きに)2本同梱されたセットが販売されている。「Move2本必須」という縛りが「この作品に触れてみたい」というプレイヤーの欲求をかえって強く駆り立てることを願う。今作にはそれだけの価値が充分にあるのだから。

そう自信を持って言えるくらい、Deracineは――そのクラシック・ゴシックなビジュアルと世界観からは思いも寄らないほど――「まったき今」を感じられる、エポックメイキングなVR作品だ。そして、そこにはモーションコントローラーによるプレイが大きく寄与していることは疑いえない

ゲーム開始直後、非物質的存在――「妖精」である筆者はまるで初めて肉体を得た魂のように、自分の両手をあちこちに動かしたり、引っ繰り返してしげしげと長いこと眺めていた。この「再生——身体的同期」の感覚は、モーションコントローラー両手持ちでなければ決してかなわない。「両の手」は実体を持たない妖精であるプレイヤーにとって、子供たちが存在している現実世界と関わるための唯一の媒介である。さらに妖精はこの2本の手によってのみ、目の前の世界に干渉することができるのだ

あるいはモーションコントローラー2本での操作は、不慣れなプレイヤーには、開始直後こそ混乱と困惑をもたらすかもしれない。しかし、プレイを進めるうちに、この世界に存在するにはこの操作形態しかありえないことが腑に落ちるだろう。

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また、主観視点のVRゲームにおいて常に懸念される「移動による酔い」という厄介な問題は「ポイントクリック&ムーブ」による移動方法と、おそらくは開発者による丹念なチューニングによって完全に解決されている。筆者の経験では、長時間プレイしてここまで全く酔わなかったVR作品は今作と『Rez Infinite』『テトリス エフェクト』くらいしか思い当たらない。VR世界において「酔わずに移動できる」ということが、いかに有り難い恩恵であるかを今回強く思い知らされた。

そしてプレイヤーが「実体を持たない妖精である」という絶妙な(そして必然的な)設定によって、セピアの色調、古めかしい洋館といった古色蒼然とした麗しい舞台装置、この古典的な移動方法に違和感やレトロ感は一切ない。繊細かつ濃まやかな物語とゲームデザインが驚くほど見事に補完しあっていることに何度でも深い溜息が漏れる。そしてプレイすればするほど、VRで古典的ADVをプレイする」ということの意義と素晴らしさが腑に落ちる。

最後に。

個人的に『Deracine』に物語と同じくらい――いや、それ以上に強く感動したのは、「この世ならざるもの」としてこの世界に(自然に)在れることだった。

どういうことか?

これまでのVRゲームにおいて、筆者は自分がけっして軽いとは言い難いPSVRヘッドセットを装着し、夜な夜なVR世界に入りこむたびに、興奮と同時に、ある種の違和感を絶えず感じていたように思う。たとえどれほどゲームに深く没入できても、心の(あるいは脳の)どこかに「自分はこの世界から切り離された現実世界のプレイヤーに過ぎない」という無意識的な「醒め」の感覚が拭い難く残っていた。

ところが、今作はプレイヤーが世界と時間からすっかり切り離された妖精である」という絶妙な設定によって、この抜本的違和感を「没入感」によって払拭するのではなく、「自分が妖精としてこの世界に存在しているとしたら」当然感じるであろう違和感を伴っているがゆえの自然な実在感(やはり矛盾した物言いだが、こう言うより他ない)」へと転換することに成功しているのだ。

その手腕があまりに見事すぎるため、つい見過ごされてしまうかもしれないが、これは驚嘆すべき達成であると考える。宮崎氏がVRに初めて触れた時に感じた「実在と非実在の狭間に居るようなアンビバレントな感覚」、そのまま「時が止まった世界とプレイヤーの必然的な関係」として生成し、やがて帰着するのだ。

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また、『Deracineの世界では時が止まっているばかりではない。登場人物への干渉によって、時はふいに動き出したり、また止まったり、進んだり、戻ったりする。ストーリー(その内容について、ここではいっさい触れない)は完全に1本道で分岐することはおそらくないが、分岐の必要性は感じない。この奇妙で美しくも哀しい時間の中に、物語の中に、世界の中に、子供たち、そして妖精たる自分が存在していることに大きな意味/意義がはっきりと見出せるから。

モーションコントローラー両手持ちによる操作にすっかり慣れて、屋敷の中を自由に動かせるようになったら、物語進行のことは忘れて、無心で歩き回ったり、庭先で歩を止めてみて欲しい。陽光煌めく空の下、木の上に登って周囲をゆっくりと眺めて欲しい。目の前にいる少年少女たちの目を奥まで覗き込んでみて欲しい。暗い部屋で老いたる校長先生の眼鏡をおそるおそる外してみて欲しい。

その時、死者が自らの幼少期を追憶する時のような淡く切ない思いがじわじわとこみあげてくるかもしれない。そんな風に、心の中の、自分自身でさえも簡単には触れられないような場所に、このDeracineはそっと触れてくる。

ゲームには、VRには空間を拡張するだけではなく、こんなやり方で人の心に触れる優しく強い力があるのか……その驚きは静謐だが、私の心をゆっくりと、確実に巨大な感動で満たしていった。プレイ前は想像もできかった驚きと、確かな喜びと、抗えない哀しみとともに。

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VR技術によって作られた作品は、我々を驚かせたり怖がらせたり興奮させたりするだけでなく、癒し、憩わせ、忘れてしまったことさえ忘れてしまっていたような心の奥の記憶を揺さぶることができることを『Deracine』は証明してみせた。

今作はPSVRにおけるマスターピースRez Infiniteや話題作Astro Botが開いたエポック・メイキングなやり方とは全く違ったやり方で、我々の心の内の新しい扉の鍵を開け、そっと押し開けてくれるだろう。心優しい少女のような、か細く長いその手で。

*1:宮崎英高 フロム・ソフトウェア代表取締役社長・ディレクター。代表作は『DARK SOULS』シリーズや、SIE JAPANスタジオとタッグを組んで制作した『Bloodborne』など。

*2:本格ADV 「本格ADV」を定義づけることは難しいが、ここでは電ファミ記事「Detroit: Become Human』は日本のアドベンチャーゲームの文法に興味がない──イシイジロウ氏が感じた葛藤と、自身の限界」のインタビュアーである福山幸司氏が同記事冒頭に記した「アドベンチャーゲームとは、コンピューター(ゲーム)から提示される情報をもとに、プレイヤーが行動を決定し、ゲーム側と対話するジャンルである」という定義を採用したい。また、『Deracine』が宮崎氏が述べたように「クラシックなテキストアドベンチャーよりのゲーム」であり、ある程度以上の尺を持った「中編作品」であることも、本作を「本格ADV」として捉える理由の一端である。