めくるめくメルク丸

ゲーム/哲学/人生

ムーンワールド再訪記(4)幻想キノコの森で

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ムーンワールドに生息するキャラクターは、誰しもが魅力的でかけがえのない者たちだが、幻想キノコの森で会えるフローレンス爺は「moonを考察する」という機会において、最重要キャラの1人と言って良いだろう。(「こういうヒッピーお爺さん、いるよね」と言われてしまったら元も子もないけど……)。

 

「キノコでぶっとんでいる」というドラッギー設定と、トリッキーな風貌に誤魔化されがちだが、実は登場キャラの中でもっともこの世界を俯瞰的かつ正確に捉えている、数少ない存在ではないだろうか(自称「インテリ」鳥のヨシダも理性的キャラだが、いかにも衒学的なヨシダと違って、フローレンス爺は頭でなく、身体感覚でムーンワールドの構造を掴んでいるように見える。

フローレンス爺の挙動と発言は、ムーンワールドと、主人公でありプレイヤーである「私」の存在をはっきりと定義/示唆する。

「オマエは別の世界(灰色の世界)から来た者」であり、彼の生息地である「幻想キノコの森」は全ての次元と繋がる多次元空間だ、と爺は言う。

キノコの森は今、コントローラーを握って『moon』に勤しんでいる僕の部屋とも繋がっているのだろうか——いや、「繋がっている」というのは語弊があるだろう。正確には「繋がっていることが自覚されている場所」と言うべきか。

いかにもSF的な電子音が鳴り響くこの森で(ここでは自前のMDを流すことはできない)、フローレンス自身も主人公も、ムーンワールドと現実の「あわい」を彷徨っている、と爺は(寂しげに)断言する。そしてフローレンスと主人公を除く、他の住民たちはさまよっていない。ムーンワールドに「同化(あるいは定住)」していると爺は信じているはずだ。

しかし、フローレンス爺が主人公と同じ様に「さまよっている」かは不明だ。爺は摂取した幻想キノコの効能によって、そのような幻想を見ているだけかもしれない。今のところ、僕はそのように捉えている。たとえ幻想キノコを食し、透明な身体と物理次元を越えて移動出来るようになっても、彼がこのムーンワールドから出ることはないだろう。我々が、この現実において、幻覚キノコを食べても空間移動装置(が存在するとして)に乗っても「この世界」から出ることができないように。

かつては、フローレンスは主人公と同次元/同種の存在であり、恋人であるワンダへの執着が彼をムーンワールドにかろうじて繋ぎ止めているのかもしれないと考えていた。でも、今回再プレイしていると、どうもそのように思えない。指輪を受け取った後も、フローレンスは変わらず森に留まり続けているし。

ともあれ、フローレンス爺は主人公の存在の特殊性を見抜き、ムーンワールドと主人公のいる世界が異なることを指摘してみせた。それだけでも爺との出会いは、『moon』において重要かつ印象的であるだろう。

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さて、このゲームでは基本的に冒頭の『Fake Moon』における勇者と透明な少年(主人公)以外のキャラクターを動かすことはないが、唯一の例外がレストラン『山猫亭』の主人・ケンジを幻想キノコの森で動かす場面である。

これはヤマネコ軒で食事を取ると、ケンジの「思い出し語り」という体裁で始まる短いイベントだが、多くのプレイヤーがここでかなり唐突な印象を受けるのではないだろうか。あの場面は長いめのイベントシーンにすれば済む場面で、登場したばかりのケンジをプレイヤブル・キャラにするための必然性はないように思える。

あるとすれば、それはケンジが森で見つけたとくべつなキノコを食したフローレンスが蒸発し、後にヤマネコ軒に現れる場面のインパクトを強めるため。あるいはプレイヤーがケンジを動かすことで、ムーンワールド住民たちの存在が主人公と「同水準・同構造」にあることを示唆しているのかもしれない。つまり全てのキャラクターは主人公同様、「プレイヤーが干渉することが可能である」ということを前もって提示しておきたかったのかもしれない。

何のために? それを言語化するためにはもう少し先に進む必要がありそうだ。