めくるめくメルク丸

ゲーム/哲学/人生

ムーンワールド再訪記(6)ここが行き止まりなのかもしれない

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この1週間ばかり、毎日少しずつ『moon』を再プレイしてみて、現在の自分はムーンワールドにおける「設定」にはほとんど興味を持っていないことに気づいた。

ここで言う「設定」とは——王様とガセは時おり入れ替わっているのではないか? とか、クリスちゃんは実はアイドルを目指すこととケンジへの恋心との間で毎晩揺れているのではないか? とか、おばあちゃんは本当は少年が孫ではないことにとっくに気づいていたのではないか? とか、ワンダがフローレンスからもらった指輪を娘であるフローラに見せたら、どんな反応をするのか確認するのを忘れてたよな……とか、ベイカーのパン屋を繁盛させるなら、あと最低パン3種くらい欲しいぞ、とか、その手のことだ。

『moon』のような、「メタ意識」ばかりで出来ているようなこのゲームでさえも、数多のファンタジー作品同様、ファンたちが好意と想像力を携え、そういう自己内設定を「2次創作」という形(やら何やら)で昇華してきた。これまでも、これからも。僕だって、それはもう「自らを構成した」ゲームだから、『moon』に対して興味も愛着も想像力もそれはもうじゅうぶん携えている(はずだ)。なればこそ、こんな誰の役にも立たないような文章を、今日も飽きもせずにしたためているにちがいない。

しかし、僕にとって『moon』はもはや「ファンタジー」ではない。よかれあしかれ。これはまったき「現実」の一部のようなものだ。だから、興味と欲望の矛先をキャラクターや物語や世界観や設定に向かわせることは今や難しい。

何を言ってるのかようわからん? かく言う僕もである。

とにかく、当再訪記の最初の方に書いたように(確か書いた)、僕はこの『moon』を、僕が生きている現実世界のメタファー、あるいは現実と地続きの世界としてプレイすることによって、前景化してくる(であろう)自己内主題に強い興味があった。

『moon』(のみならず、「全てのゲームが」と言うべきかもしれないが、それはさておき)とは、一切合切が誰かによってプログラミングされた、まったき「ゲーム」である。だからムーンワールドも、愛すべきキャラクターたちも、プレイヤーの自由意思として選ぶ選択さえも、あらかじめ「決定づけられた」ものに過ぎない。ゆえにこの世界の内側(『moon』をプレイしている状態では)からは、君は光の扉を開けることはけっしてできない。だから!

「ゲームなんか止めて、早く寝なさい」

『moon』という作品には、そんな製作者のメッセージが抜き難く刻み込まれている。このゲームを最後までプレイしたほとんどの者がたぶんそのように思うだろう。かく言う僕もそのように捉えてきた。
だからこそ、ゲーム最後に表示される選択肢では、
yesを選び、
noを選び、
しかし、どちらのエンディングにも得心できず、思い出せる最後のプレイでは、エンディングが流れる直前に、初代プレステ本体の上蓋をおもむろに(おもむろである必要はないかもしれないが)開き、ディスクをケースに仕舞い、棚へと戻した。プレステ上蓋こそが光の扉だと確信したからだ。今もそう信じている(ただしエンディングに関して言えば、yesを選んだ時のサツバツとした終わり方が個人的に好みだった)。そしてそれは言ってみれば、「模範的」解釈だったように思う。

はたして、ムーンワールド内で得られる答えは、「ゲームを止め、現実世界に戻る」ことによってしか与えられないのだろうか? 現実世界に戻る? 上蓋を開けて(PS3には蓋はないので、ディスク取り出しボタンを押すしかないのだが)、戻った現実は、『moon』を始める前と同じ現実なのだろうか?
この『moon』なるメタRPGが指し示すのは、「moonのみならず、君が遊んだゲームは全て、誰かがプログラムした基盤である。それを知ったうえで、この生成的な現実を生き直せ」そんな感動的な(あるいはいささか説教めいた)教訓なのだろうか。

でも、今の僕にはそれでは物足りない。

再び『moon』をプレイしている僕は——いささか野心的な物言いをするなら——製作者の用意した教訓的な結末には辿り着きたくない。製作者から送られた、辛辣で有用なメッセージを受け取りたくない。誰かの2次創作にもあまり興味はない。
辿り着きたいのは、ひょっとしたら辿り着けるかもしれないし、辿り着けないかもしれない、ムーンワールドと現実世界、そして狭間にある中間地点を一挙眺望することかもしれない。意味わかんない。すみません。

言い直そう。『moon』の登場人物も、透明な少年も勇者も、誰かによって「決定済みの」存在であるならば、僕はそれを決定した者の「正体」を知りたいと強く欲している。そして、「それは『moon』のシナリオライターである」という話ではもちろん、ない。

『moon』を作り上げた製作者たちも、『moon』をプレイする僕自身も、僕の周囲に広がる現実世界(と呼ばれる世界)も、このムーンワールドと同じように、全知全能の誰か(神?)によって、プログラムされた基盤によって決定されていた存在……であるなら、この世界における「光の扉」を開けるにはどうしたら良いのか?

それが『moon』を今更に再プレイしている今の僕にとっての最重要主題、あるいはいささか急を要した「案件」であった。僕がこの再訪記を書いているささやかな動機のようなものでもある。

今の僕にできることは、これまで『moon』でそうしてきたように、困っている人々を主体的に助け、モンスター(この世界におけるモンスターとは?)の魂をキャッチし、ラブを集め(ラブの一切合切があらかじめ用意されたものだったとしても)、月(それは死のメタファー、かもしれない)に辿り着くまで生きることなのかもしれない、と思う。この、生々しくも、現実味に欠いた世界を。
だけど。

『moon』において、ヘイガー博士のロケットに乗り込み、宇宙を越え、月まで行っても結局光の扉が開かなかったように、この世界で本物のロケットに乗り、本物の月まで届いても、僕は光の扉を開くことは(きっと)できないだろう。

そも、「光の扉」とは? その扉ははたして「何処」へ行くための扉なのか? 

さしあたって、その扉を「ここではない何処か」を開くための扉である、としておきたい。
では、その扉を開けるには、どうすれば良いのか?(そして、こんな堂々巡りをいつまで繰り返すつもりなのか?)

その答えは誰もが1度は頭によぎるはずだ。無論、僕の頭にもよぎった。

死。死だけが、「ここではない何処か」に行くことのできる可能性を持った唯一の扉であるはずだ。たぶん。

その扉を開けた先には何も無いかもしれない。ピクサー映画『リメンバー・ミー』みたいにカラフルな死者の国が広がっているかもしれない。あるいはどこか別の生者の国かもしれないし、眩い光に満ちみちた空間かもしれない。ひたすら冷たい土の下かもしれない。
「そんなに知りたいなら死んでみれば!?」とは君まで言うな。焦ることはない、どのみち遅かれ早かれ、我々はその扉を開けることになるのだから。

では、「死を待たずして」そこに行くにはどうしたら良いのだろう?

そんな新しい問いを携えて今、『moon』を再プレイしている。そんな気がする。

ラスト・オブ・ラスト、しつこく、もっかい。

僕はムーンワールドをこの現実世界のメタファーとして捉えてプレイする時、そこにかつて『moon』をプレイした時とは違った「何か」が現出するのではないか? それが知りたくて再プレイを始めた、と先だって述べた。

だけど今のところ、僕には何も見えてこない。フローレンス爺の言うように、「2つの世界」をさまよっているばかりだ。これ以上続けても、何かしらこれを読んでくれている皆さんの興を惹くようなことは何も記せそうもない。

ここが「行き止まり」、なのかもしれない。

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 YES

 NO