めくるめくメルク丸

ゲーム/哲学/人生

ムーンワールド再訪記(0)序文のようなもの

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まず、簡単な序文のようなものから。

当方、幼少期からのゲーム好きらしく、大好きなゲームはそりゃあたくさんあります(といっても、そこまで多くはないけど)。

しかし遡ること20年前、1998年に発売されたこの『moon』を「大好きなゲームの1本」として挙げるのは相当に強い違和感が否めない。このゲームに対する自分の想いを簡潔に表現するのは難しい。そも、わざわざ言葉にする必要もないような気もする。

それでも敢えてするなら、

「重要な」とか。

「大切な」とか。

「かけがえのない」とか。

あるいは「自分を構成した」とする方が、少しは近い(それでも若干の違和感はあるけれど)。

同時に、しゃらくさいことは抜きにして、「大好きっ!!!」と大声で叫びたいような無垢な気持ちもあって。

それでもやっぱり、「大好きなだけじゃ済ませらんない。」そんな不遜、かつ複雑な感情を持ち続けている希有なゲーム。そんな面倒な作品が僕にとっての『moon』である。

そんなとくべつな作品を今回、再度プレイする直截の(あるいは間接の)理由としては、

●およそ20年前、この作品について記した拙感想文(某ゲーム誌の面接時、原稿用紙に書いて提出したものだ)を昨年の引っ越し時に引っぱり出し、読み返したこと。(それは記した当時の年齢など言い訳にならぬほど、稚拙なものに感じられた)

 ●ゲームの話題を通じて、ツイッター上でやりとりするようになった方が、僕とのやり取りの中で、『moon』ソフトを購入し(中古市場ではけっこうな値段である、早くアーカイブ化しますように!)、最後までプレイし、得難い感想を送ってくれたこと。

 ●評論家・文筆家として活躍されている中川大地氏の『moon』評・決定稿とも言うべき長文を、つい最近になって初めて知り、読み、深く感銘を受けたこと(多くのmoonファンに読まれるべきだと感じる)。

そして、何よりも『moon』の思い出・記憶を、未だ深く長く胸に刻んでいらっしゃるプレイヤーがいかに多いかに、SNSなどを通じて改めて気づかされたこと。

そんな要因が巨大な波となって、『moon』によって人生観・ゲーム観を少なからず変えられた者として、20年越しのまとまった記事——それは素朴な感想になるかもしれないし、たどたどしい論考になるかもしれないし、遅れながらの感謝状になるかもしれない——をしたためよう。そんな不遜な気持ちがこみあげてしまったのだった。

しかし、最後に『moon』をプレイしてから10年近く経ってしまっている現在、このゲームの細かな記憶はすっかり薄らいでしまっている。このままでは、まとまった記事を記すことはまず不可能であろう。

それなら、もう1度、今の自分の目でムーンワールドをつぶさに観察して回るのはどうだろうか? そしてあの頃よりも肥えた(あるいは擦れた)ゲーム観と人生観(そのふたつは分かちがたく結びついている)を携えている自分が、はたしてどんな気持ちでこのゲームを再プレイすることになるのか?そんな興味も手伝った。

そうして、当時とは少しばかり違った視点で、細かなところに目を配りつつ、20年前の無垢な心(と言うべきか)で『moon』をプレイしていた自分と「出会い直す」ような心持ちで、再プレイすることを決めたのだった。

ここに記すのは、「長い時間が経ってから、再び訪れた国での旅行記」。あるいは、その旅行記のためにつける「備忘録」的な雑記のようなものになるだろう。1日1日、それをつぶさに書きつけていこうと考えている。

また、今1度、ムーンワールドを「もう1つの日常」として、日々この雑記をしたため、後ほどこの愛すべきムーンワールドから出てから(出ることはすでにして約束されている)、何かしらまとまった文を記す時の参照としたい。

そんな試みがはたしてうまくいくのか、そして最後まで続くのかか? わからないけど。『moon』なる一風変わったゲームにご興味ある方も、ない方も、よかったら最後までお付き合いください。

以下、ゲーム冒頭の写真ともに(今回プレイに用いるPS3ではスクリーンショットが取れないので、おもにスマホやデジカメで直接画像撮影してから加工しています。お見苦しい写真はご容赦ください)。

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冒頭『Fake Moon』のラスボス・竜

竜とのバトルに決着が着く(そもそも、決着が着くのか着かないのか不明であるが)前に、母親の声(ゲームなんてやめて、早く寝なさい)で現実世界(?)に戻される。

注目するべきは、勇者が勝ったのか負けたのかわからぬままにゲームが終わること。竜の台詞「おまえがくることはすでにしっていたぞ」。この台詞はこの先、主人公の前で何度も変奏曲のように繰り返されることになるだろう。

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テレビに吸いこまれる主人公(≒私)

ここからムーンワールドへとびゅうびゅう風の吹く中、ゆっくり落ちていくシーンが個人的に大好きだ。夢の中で見る記憶の走馬灯、あるいはビジュアル・サンプラーのように様々な場面が映し出される。それを録画し、スローモーションにしていちいち止めてじっくり見たい欲望に襲われる。途中、祖母の家で、哀しき勇者と化す前の孫の台詞が垣間見えた気がした。あるいは気のせいかもしれないが。

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透明な、実体を持たぬ主人公

それにしても、どうして愛犬タオと勇者の祖母は、主人公の存在にすぐに気づけたのだろう? 他のムーンワールド住民は、祖母から勇者の服を着せられるまでは、気配を感じた素振りもほとんどなかったのに。

それは、祖母の目がほとんど見えない(であろう)こと、タオが動物であることに起因しているのかもしれない。たとえば上記場面では、餌を食べている鳩に触れると、鳩はすぐに飛んでいく。鳥であるヨシダ、あるいはおもちゃの子であるノージなら、主人公の存在に(服なしでも)気づけただろうか? 確かめるすべはないのだが。

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勇者の祖母と愛犬タオ

「タオ」は、製作者である西健一氏が当時飼っていた愛犬の名前だったように記憶している。その名はやはり「タオイズム」(中国の哲学思想)から取っているのだろうか。次作『L.O.L』(Lack Of Love)の作風などから鑑みても、「犬なる生物」は西健一氏の世界観にとって、相当に大きな存在だったと思われる。

中心の柱の、祖母と孫(勇者)の写真に注目。「イノセンス(なるもの)の喪失」という主題も、この作品に通奏低音として流れているように思う。

 

主人公が「透明な状態」であることは、道中あちらこちらで示唆される。

「透明な、実体を持たぬ主人公」という設定が、この世界(ムーンワールドと現実世界)を理解するうえで、抜きがたく重要であることは言うまでもないだろう。それについて、自分自身の言葉で得心することが今作を再開した目的のひとつだ。

ワンダの店で酒を飲んでいる近衛兵イビリー。歳を経て(自分が夜な夜な酒場に赴くような中年男性になってみて)、当時よりもイビリーにずっと親近感が湧いていることに気づいた。昼間には言えないこともたくさんある。

おやすみなさい。また明日。