めくるめくメルク丸

ゲーム/哲学/人生

ムーンワールド再訪記(7)オフィシャルガイドブックという名の……

f:id:lovemoon:20180426224517j:plain

昨日は形而上的にも形而下的にもなんだか「行き止まり」を感じた当再訪記ですが、何よりも優先すべきは頭でごちゃごちゃ考えるよりもJPI!(Just Play It)という保留信なので、気を取り直して続行したいと思います。以後、お神酒知りを、もとい、お見知り置きを。

さて、今日は本棚から埃をたっぷり被ったこの本を引っぱり出してきました。

『moon オフィシャルガイドブック』(アスキー)。ちゃんと読むのは初めてかも。当時すぐに新品購入したものの、出た時にはもうクリアしていたので仕舞ったままになっていました。しかし今回(大声で言うのは恥ずかしいのだけど)、とあるアイテムの入手方法にすっかり行き詰まってしまって。「あ、これ自力じゃ見つかりそうもないな」、と。あ〃、あの頃より忍耐力と洞察力も弱っているのかしらん。認めたくないものだな、加齢ゆえの弱体化というものを。

それで、致し方なしにこのガイドブックを紐解いてみたのですが、なんや、これ、めっちゃ良くできとるやないか(ヨシダ風)。

僕はかつて(moon発売数年後から)3年ばかり、書籍の編集みたいな仕事に関わっていたことあるのですが、もう、その頃に携わっていた書籍たちとこれを読み比べると、まさに「月とすっぽん」ですわ(うまいこと言った)。

それで、行き詰まっていた箇所などすっかり忘れて、1時間ばかり読みふけっちまいました。キャラデザインを手がけたラブデリック倉島一幸さんの全面協力を得ているからというのも大きいのだろうけど、総じてデザインが素敵でキュートで素晴らしい。「攻略本然」としたところは微塵もなく、まるでセンスの良い絵本のよう。だけど、行き詰まっている人にはばっちり役に立ってくれるという、まさしくガイドブック/攻略本のお手本のような出来映え。

いったい、何処がこしらえたんだよ……と巻末を見れば、おお、かのCB'S PROJECT。今は亡き成沢大輔さんの編集プロダクション。そりゃあ、出来良いわけだ。当時の編集者志望だった僕は、まっさきにここの門戸を叩くべきでしたね。成沢さんもこのプロダクションも無き今となっては、詮無き話ですが。

f:id:lovemoon:20180426230306j:plain

聞いてくださいよ、さらに今日ですね、再プレイ後初の「ゲームオーバー」を迎えちゃいました。このゲームにおいて「ゲームオーバー」っていうのはいささか違和感あるのですが。

その理由というのがですね、城下町で鳥のヨシダさんのツアーに何も考えずに申し込んだところ、「出発する時になって着くのは2日後」って言うじゃありませんか。なんじゃそりゃ、先に言ってよ、とヨシダに言っても鳥カゴ街に戻らず。

「なんとか持ってくれよ……」との願いも空しく、案の定、ギリギリ空の上でアクションリミット切れちゃった。焦って写真を撮ったので、画面が暗くなってますが、記念すべき(?)初game over画面。おまけに、今日は始めてからここまで1度もセーブせずに(眠らずに)2時間ばかりソウルキャッチしたり、住民たちからラブをゲットしてたんです。一切合切灰燼に帰しましたわ。

ええ、さすがにやり直す気力、湧かなかったですね。常人らしく、1日のうちにゲームに費やせる時間は限られてるし、おまけに(誰に頼まれたわけでもないけど)これも記さなきゃいけないし。どうやら、昨今の生ぬるいオートセーブ環境に慣れすぎていたようです。かつてはこういうこと、日常茶飯事だった気ぃする。


そういうわけで、明日また、頑張ろうと思います。できるだけガイドブックには頼らずにね。しーゆーとぅもろー。

ムーンワールド再訪記(6)ここが行き止まりなのかもしれない

f:id:lovemoon:20180426004815j:plain

この1週間ばかり、毎日少しずつ『moon』を再プレイしてみて、現在の自分はムーンワールドにおける「設定」にはほとんど興味を持っていないことに気づいた。

ここで言う「設定」とは——王様とガセは時おり入れ替わっているのではないか? とか、クリスちゃんは実はアイドルを目指すこととケンジへの恋心との間で毎晩揺れているのではないか? とか、おばあちゃんは本当は少年が孫ではないことにとっくに気づいていたのではないか? とか、ワンダがフローレンスからもらった指輪を娘であるフローラに見せたら、どんな反応をするのか確認するのを忘れてたよな……とか、ベイカーのパン屋を繁盛させるなら、あと最低パン3種くらい欲しいぞ、とか、その手のことだ。

『moon』のような、「メタ意識」ばかりで出来ているようなこのゲームでさえも、数多のファンタジー作品同様、ファンたちが好意と想像力を携え、そういう自己内設定を「2次創作」という形(やら何やら)で昇華してきた。これまでも、これからも。僕だって、それはもう「自らを構成した」ゲームだから、『moon』に対して興味も愛着も想像力もそれはもうじゅうぶん携えている(はずだ)。なればこそ、こんな誰の役にも立たないような文章を、今日も飽きもせずにしたためているにちがいない。

しかし、僕にとって『moon』はもはや「ファンタジー」ではない。よかれあしかれ。これはまったき「現実」の一部のようなものだ。だから、興味と欲望の矛先をキャラクターや物語や世界観や設定に向かわせることは今や難しい。

何を言ってるのかようわからん? かく言う僕もである。

とにかく、当再訪記の最初の方に書いたように(確か書いた)、僕はこの『moon』を、僕が生きている現実世界のメタファー、あるいは現実と地続きの世界としてプレイすることによって、前景化してくる(であろう)自己内主題に強い興味があった。

『moon』(のみならず、「全てのゲームが」と言うべきかもしれないが、それはさておき)とは、一切合切が誰かによってプログラミングされた、まったき「ゲーム」である。だからムーンワールドも、愛すべきキャラクターたちも、プレイヤーの自由意思として選ぶ選択さえも、あらかじめ「決定づけられた」ものに過ぎない。ゆえにこの世界の内側(『moon』をプレイしている状態では)からは、君は光の扉を開けることはけっしてできない。だから!

「ゲームなんか止めて、早く寝なさい」

『moon』という作品には、そんな製作者のメッセージが抜き難く刻み込まれている。このゲームを最後までプレイしたほとんどの者がたぶんそのように思うだろう。かく言う僕もそのように捉えてきた。
だからこそ、ゲーム最後に表示される選択肢では、
yesを選び、
noを選び、
しかし、どちらのエンディングにも得心できず、思い出せる最後のプレイでは、エンディングが流れる直前に、初代プレステ本体の上蓋をおもむろに(おもむろである必要はないかもしれないが)開き、ディスクをケースに仕舞い、棚へと戻した。プレステ上蓋こそが光の扉だと確信したからだ。今もそう信じている(ただしエンディングに関して言えば、yesを選んだ時のサツバツとした終わり方が個人的に好みだった)。そしてそれは言ってみれば、「模範的」解釈だったように思う。

はたして、ムーンワールド内で得られる答えは、「ゲームを止め、現実世界に戻る」ことによってしか与えられないのだろうか? 現実世界に戻る? 上蓋を開けて(PS3には蓋はないので、ディスク取り出しボタンを押すしかないのだが)、戻った現実は、『moon』を始める前と同じ現実なのだろうか?
この『moon』なるメタRPGが指し示すのは、「moonのみならず、君が遊んだゲームは全て、誰かがプログラムした基盤である。それを知ったうえで、この生成的な現実を生き直せ」そんな感動的な(あるいはいささか説教めいた)教訓なのだろうか。

でも、今の僕にはそれでは物足りない。

再び『moon』をプレイしている僕は——いささか野心的な物言いをするなら——製作者の用意した教訓的な結末には辿り着きたくない。製作者から送られた、辛辣で有用なメッセージを受け取りたくない。誰かの2次創作にもあまり興味はない。
辿り着きたいのは、ひょっとしたら辿り着けるかもしれないし、辿り着けないかもしれない、ムーンワールドと現実世界、そして狭間にある中間地点を一挙眺望することかもしれない。意味わかんない。すみません。

言い直そう。『moon』の登場人物も、透明な少年も勇者も、誰かによって「決定済みの」存在であるならば、僕はそれを決定した者の「正体」を知りたいと強く欲している。そして、「それは『moon』のシナリオライターである」という話ではもちろん、ない。

『moon』を作り上げた製作者たちも、『moon』をプレイする僕自身も、僕の周囲に広がる現実世界(と呼ばれる世界)も、このムーンワールドと同じように、全知全能の誰か(神?)によって、プログラムされた基盤によって決定されていた存在……であるなら、この世界における「光の扉」を開けるにはどうしたら良いのか?

それが『moon』を今更に再プレイしている今の僕にとっての最重要主題、あるいはいささか急を要した「案件」であった。僕がこの再訪記を書いているささやかな動機のようなものでもある。

今の僕にできることは、これまで『moon』でそうしてきたように、困っている人々を主体的に助け、モンスター(この世界におけるモンスターとは?)の魂をキャッチし、ラブを集め(ラブの一切合切があらかじめ用意されたものだったとしても)、月(それは死のメタファー、かもしれない)に辿り着くまで生きることなのかもしれない、と思う。この、生々しくも、現実味に欠いた世界を。
だけど。

『moon』において、ヘイガー博士のロケットに乗り込み、宇宙を越え、月まで行っても結局光の扉が開かなかったように、この世界で本物のロケットに乗り、本物の月まで届いても、僕は光の扉を開くことは(きっと)できないだろう。

そも、「光の扉」とは? その扉ははたして「何処」へ行くための扉なのか? 

さしあたって、その扉を「ここではない何処か」を開くための扉である、としておきたい。
では、その扉を開けるには、どうすれば良いのか?(そして、こんな堂々巡りをいつまで繰り返すつもりなのか?)

その答えは誰もが1度は頭によぎるはずだ。無論、僕の頭にもよぎった。

死。死だけが、「ここではない何処か」に行くことのできる可能性を持った唯一の扉であるはずだ。たぶん。

その扉を開けた先には何も無いかもしれない。ピクサー映画『リメンバー・ミー』みたいにカラフルな死者の国が広がっているかもしれない。あるいはどこか別の生者の国かもしれないし、眩い光に満ちみちた空間かもしれない。ひたすら冷たい土の下かもしれない。
「そんなに知りたいなら死んでみれば!?」とは君まで言うな。焦ることはない、どのみち遅かれ早かれ、我々はその扉を開けることになるのだから。

では、「死を待たずして」そこに行くにはどうしたら良いのだろう?

そんな新しい問いを携えて今、『moon』を再プレイしている。そんな気がする。

ラスト・オブ・ラスト、しつこく、もっかい。

僕はムーンワールドをこの現実世界のメタファーとして捉えてプレイする時、そこにかつて『moon』をプレイした時とは違った「何か」が現出するのではないか? それが知りたくて再プレイを始めた、と先だって述べた。

だけど今のところ、僕には何も見えてこない。フローレンス爺の言うように、「2つの世界」をさまよっているばかりだ。これ以上続けても、何かしらこれを読んでくれている皆さんの興を惹くようなことは何も記せそうもない。

ここが「行き止まり」、なのかもしれない。

Continue?

 YES

 NO

ムーンワールド再訪記(5)勇者と透明な少年の関係

f:id:lovemoon:20180424225608j:plain

『moon』における2大重要アイテム「白羽の矢」と「石版」(ゲーム進行には関係ないが、moonの物語/世界観をプレイヤーが理解するための最重要アイテムであるはずだ)は、どちらも序盤で比較的容易く手に入る。

とくに「タオの石版」は(かつて1度クリアした者からすれば)ここまでさらっと手に入ることに、違和感を感じるほどだ。これほどの重要アイテムが、序盤に愛犬の掘った穴から出てくるところに凄みを感じる。

この石版を街に持ち帰り、博識の鳥・ヨシダに見せると、かつてヨシダの故郷でも似た石が見つかったこと、その石版に書かれている文字を翻訳するための翻訳機(ヘイガー博士製作)が何処かにあることが示される。そんなものあったっけ? とすると、ヘイガー博士(僕はこの人物があまり好きではない)はこのムーンワールド構造について完全に熟知していたのだったっけ。そういう細かな設定は経年によってすっかり忘却している。

「石版」に関しては色々思うところがあるのだが、もう少し進めてから。

今日はおばあちゃんの孫である「勇者」について記したい。

憎き大臣の陰謀により、タオの石版と同じ穴で見つかる「白羽の矢」(「タオが家で見つけた矢を、骨と間違えて穴に隠したのだろう」という、もっともらしい説を何かの記事で読んだ記憶がある)によって、おそらくは無垢で優しい少年だった祖母の孫は冷酷無慈悲な勇者へと変貌した。

いったい何故、大臣は罪のない少年に対してそんな残酷なことをしたのか? それは月が消えたことによってムーンワールド消滅の危機、もしそこまでは感じなかったとしても、とにかく国家存続の危機を感じたからであろう。たぶん。

さて、僕はこれまで、主人公である「透明な少年」は現実世界からムーンワールドに吸いこまれた僕(=プレイヤーキャラ)の分身のようなもの、と無意識に決めてプレイしていたように思う。

でも今回ムーンワールド再訪中、行く先々で遭遇する勇者の姿をじっくり見ていたら、透明な少年と勇者の存在に関して微妙に自己内定義が変わったのを強く感じる。

f:id:lovemoon:20180424213917j:plain

主人公である透明な少年と勇者には同じ(読みの)名が与えられている。いや、「与えられている」というか、その名はプレイヤーである僕自身がゲーム冒頭で与えたのだった。とすれば「透明な主人公」とは、勇者のオルターエゴのような存在ではないか? そう思ったことはかつて何度かあった。しかし、その解釈はもうひとつ曖昧で煮え切らないものがあった。

これまで、僕は「白羽の矢の儀式」と城に伝わる呪いの鎧によって、勇者の心はすっかり死んでしまったものと思いこんでいたようだ。でもそうではなくて、この透明な主人公は、勇者の分離した心そのもの(イメージとしては幽体離脱に近い)だとしたら?

もちろん異論反論あるだろうが、今回はそんな素朴な解釈のもとにプレイを進めることにした。そう定義すると、改めて捉え直したい場面がいくつか出てくる。

 

たとえば、主人公と勇者が最初に城下町で接触した場面。この時、主人公は勇者の身体に派手に弾き飛ばされる。それはあたかも勇者が主人公を「邪魔だ、どけ」とばかりに突き飛ばしているようにも見える。が、そうではなくて、勇者の身体から抜け出た存在である主人公を、勇者の身体は(例えば呪い鎧の効用によって)受け付けないことを大袈裟に示唆しているのではなかろうか。

また、透明な少年が勇者の霊魂(のようなもの)であるからこそ、祖母とタオは「勇者の良心の化身」とも言うべき、主人公の存在にムーンワールド住民の中で唯一気づくことができたのではないだろうか。

f:id:lovemoon:20180424213950j:plain

さらにゲーム中盤、おばあちゃんは「勇者が家にやってきてから調子が良くない」と、急に寝込み始める。それは主人公の来訪によって、孫が帰ってきたと思いこんでいたにもかかわらず、その後、孫の「実体」である勇者の姿を目にしたことによって、精神的混乱をきたしてしまった——と捉えることもできる(この時、祖母の家の前で「召喚獣ヘビー」の死体が現れている)。

また、もし主人公が勇者の霊魂(と言うべきか)とすると、主人公が月に行くために、モンスターたちの魂を救わなければならなかった理由も必然的に浮かび上がってくる。

僕の考えから言ってしまえば、それは自分の本体(と言うべきか)である勇者が、モンスターたちを殺戮したことに対する「償い」あるいは「カルマ解消」に近い行為ではないだろうか。「愛ある行為」というよりは義務、あるいは必然的行為というか。勇者の身体はモンスターをキルし、その後、勇者の魂(心、霊……もはや何でも良い)は同じモンスターを救っているのだとしたら、「キルすること」と「ソウルキャッチ」することは、本質的に同じ行為ではないか。

つまりは、殺戮によってレベルを上げ、月を目指す勇者と、救済によってレベルを上げ、やはり月へ向かわんとする透明な少年は「2人でひとつ」の存在である。

そして透明な主人公を操作するプレイヤー、すなわち「私」の存在がここに浮かび上がってくる。それについて、今は以下のように捉えておきたいと思う。

勇者/透明な少年/私は「三位一体の関係」である。

これでは何を言ったことにもなっていないかもしれないけど、今日はここまで。

なんとなく、この再訪記も佳境に入ってきたような気ぃする。おやすみなさい。