めくるめくメルク丸

ゲーム/哲学/人生

The 20 Best Games Of All Time By A Schizoid Gamer〜70年代生まれのスキッツォイド・ゲーマンによるオールタイム・ベストゲーム20選〜

【Side-A】
俺を構成したゲーム10本(年代順)
唐突で恐縮だが、俺を「構成した」ゲーム10本を、リリース年順に紹介させて頂く。
この時代に生まれた偉大なゲームたちを紹介することは、とりもなおさず、この世代に生まれた俺、そして俺と同時代を生きた諸氏たちを紹介することとほぼ同義になるはずだから、長ったらしい自己紹介とか前口上は抜きで。
……では、参る。

f:id:lovemoon:20210820211138p:plain

①パックランド(1984/AC/ナムコ)

自分にとって、ヴィデオゲームの魔法は全て本作に詰まっていると言っても過言ではない。結局のところ、己の人生におけるヴィデオゲームとは『パックランド』に始まり、『パックランド』に終わるのだろう。

今作に出会ったのは俺が8歳の時、JR国立駅前にできた『カニヤ』というゲームセンターだった。

『カニヤ』は薄暗く、当世風に言うところの「ツッパリ」(ヤンキーという概念が生まれる前のガクラン・リーゼント or ガクラン・パンチ)と「オタク」(という概念が生まれる前の早口で物知りな男たち)でひしめきあい、当時の奴等は『忍者くん』や『ソンソン』、脱衣マージャンが同じ磁場に共存するディスプレイテーブルに50円玉をうず高く積み上げていた。

忍び込むようにして入ったこのゲーセンで、俺は『パックランド』にひと目で惚れた。
『パックランド』には俺がそれまで見てきたゲームとは全く違った吸引力があった。アメリカン・ドポップなキャラクター、胸躍るようにドリーミーなBGM、色鮮やかでドキッチュな色彩……全てにおいて、これほど魅せられたゲームは初めてだった。

消火栓を押した時の、水しぶきに押された時の、モンスターの頭に乗っかった時の、妖精にもらったブーツで空を飛んだ時の——「感動」なんて言葉じゃ言い尽くせない激しい胸の震え。それは俺がヴィデオゲームと「契りを交した」瞬間だった。
その契りは今なお解消されていない。

(追記)
その後、親に買ってもらったFC版『パックランド』は、今プレイすると相当トホホな出来栄えだったが、俺の心はそれでも充分踊った。
何しろ、家のブラウン管TVで好きなだけ『パックランド』が出来る。夢そのものだ。パックマンもモンスターも消火器もひと回り縮んでしまっていたが、他ナムコゲーのFC移植に洩れず、「頑張っていた」ことは認めなきゃならない。
2コンを使えば十字キーで移動できるのもありがたかった。本作特有の「ボタン移動操作」は革新的かつ、確信的(難度を高めるための)であったが、十字キーでのゲームに慣れたファミっ子にはさすがに厳しかった。ボタン移動のみでの全面クリアは(俺には)まず不可能だったはずだ。
ちなみにポケットモンスター原作者・田尻智氏による自伝的作品『パックランドでつかまえて』も所有していたはずだが、引っ越しの時に失くしてしまった。

 

f:id:lovemoon:20210820002918p:plain

②ポートピア連続殺人事件(1985/FC/エニックス)

もし本作をプレイしていなかったら、初代ドラクエを発売日に購入することもなかっただろうし、「ADV」というジャンルに注意を払うこともなかっただろうし、中学生になってから推理小説にどっぷり浸かることもなかった。つまり、俺は俺でなかった。

「犯人はヤ●」は、個人的にはたいした問題じゃない。

推理小説よりもゲームブックよりも面白い「推理もの」をゲームで作り上げてみせたことに大きな意味と意義があった。

シナリオ・堀井雄二/制作・チュンソフト

ゲーム史的に考えて、あまりに偉大すぎるだろ。本作がなければ(成功しなければ)ドラクエもFFもヘラクレスの栄光も存在しなかったはずだ。
これまでもこれからも、ポートピアは俺の血であり肉である。

(追記)
本作がヒットした影響で、FCにはコマンド型ADVが雨後の筍の如く発売された。憶えているタイトルを挙げてみる。
『サラダの国のトマト姫』『神宮寺三郎 新宿中央公園殺人事件』『さんまの名探偵』『中山美穂のトキメキハイスクール』『ファミコン探偵倶楽部 消えた後継者』『山村美佐サスペンス 京都龍の寺殺人事件』『新・鬼ケ島』『水晶の龍』『殺意の階層』……。
どれもクオリティの面で本作には及んでいないと感じる。本作をアップデート(という言葉はなるべく使いたくないのだが)したADVは、FCにおいては、同じく堀井雄二による『オホーツクに消ゆ』のみではなかろうか。

 

f:id:lovemoon:20210820185122p:plain

③ドラゴンクエスト(1986/FC/エニックス)

『ポートピア連続殺人事件』と『ドラゴンクエスト』は記憶が地続きになっている。
子供ながらに、「あの堀井雄二で、チュンソフトで、エニックスなら絶対面白いに決まってるや!」みたいなノリで、どんなゲームなのかもよくわからないまま近所のおもちゃ屋に予約した。
初プレイ時は……のっけからびしびし震えましたね。こんなに面白いゲームがあって良いのかと。ゲームにはこんなことができるのかと。

作者と開発元が同じだけあって、テキスト文体とUIがポートピアと一緒だな……などと子供らしくないことも思ったっけ。
エンディングとスタッフロールでは母親の前で号泣した。
思えば、ここに挙げたゲーム(前半10本)は殆ど全て泣いた気がする。今となってはゲームで感動して泣くことなんてそうはないのだが。その涙が齢によるものだったのか、ここに挙げたゲームの凄さによるものだったのかは知らん。

(追記)
自分にとっての「ドラクエ」はⅦ(エデンの戦士たち)で終わった。
その後のドラクエも一応プレイし続けているものの、自分にとっての「ドラクエ」が戻ってくることはおそらくない。アレフガルドと天空城にはもはや帰れない。
個人的にもっとも評価しているドラクエは『Ⅵ』(幻の大地)。理由について書くとかなり長くなりそうなので、いつか別枠で。
ただ、改めてプレイしてみて深い感慨が押し寄せてくるのは、やはり始原である本作とⅡ、Ⅲ、IV——つまりは全FC版ドラクエであるようだ。こればかりは理屈じゃない。世代である。FCオリジナル版をプレイする手段が、Wii版『ドラゴンクエストⅠ・Ⅱ・Ⅲ』を中古で買い求めるしかない(オリジナル版IVにいたっては未だFCのみ)というのは、明らかに間違っているだろう。『ドラゴンクエスト』は指定文化財同然なのだから。

 

f:id:lovemoon:20210820190014g:plain

④ウィザードリィ(1987/FC/アスキー)

通称『Wiz』

ある種のゲーム、ゲーム内テキストが「想像力」を膨らませる最良の媒介であるってことはWizが教えてくれた。「RPG」というジャンル/概念を意識するようになったことも、ドラクエよりWizの影響がずっと大きい(ウィズがなければドラクエも存在しなかったのだろうが)。
種族、職業、キャラメイク、鑑定しなければ不明なアイテム。
「?ぶき」を鑑定して「むらまさ」だった時を上回る驚きと喜びって、もう体験できないんじゃないか?
もろに鳥山明なドラクエとは違って、匿名的で、おどろおどろしくもリアルな姿/形状のモンスター(末弥純・作画)に慄いた。
寺院に駆け込んでも、死者が蘇生するとは限らない——人も物も永久に失われてしまうというリアリティに泣いた。
Wizは俺に「隣り合わせの灰と青春」を理屈ではなく、ゲーム体験として叩きこんでくれた。
おおっと、故羽田健太郎氏の作ったBGMの素晴らしさについても触れないわけにはいかない。
あらゆるクラシック音楽から「いいとこどり」の手法で極上の音楽を練り上げるすぎやま氏に対して、バッハ以前のバロック音楽へのストイックな愛がびしびし伝わってくる荘厳な旋律は羽田氏ならでは。タイトル画面、カント寺院、キャンプBGMは永遠ものだろう。もし未聴ならyoutubeなどでぜひ聴いてほしい。

(追記)
今思えば、Wizをファミコンに見事に移植してみせたゲームスタジオの功績は偉業だった。2、3、5、GB版、SFC移植版、どれも瞠目に値する出来だ。ほとんど奇跡。ちなみに筆者は4(ワードナーの帰還)未プレイであることが未だ気にかかっている。この先、プレイできる機会はあるのだろうか?
ともあれ、少なくともFC/SFC版全作をいつでもプレイできるようにしてもらいたい。初期ドラクエ同様、本作も文化における「リルガミンの遺産」なのだから。誰もがいつでも文化的アーカイブにアクセスできる環境を設けることは、ゲーム業界の責務であろう。

 

f:id:lovemoon:20210820212548j:plain

⑤MYST(1994/SS/サンソフト)

当時、プレステ派とサターン派(さらには3DO&PC-FX勢)で真っぷたつに割れたが、俺は迷わずサターンを選んだ。目的はふたつ。バーチャファイターと本作をプレイするためだ。

浪人生だったので、当時は震えるほど高価だった(44800円)無骨きわまりない鼠色のハードを、ファミマのバイト代で購入した。

膨らみ過ぎて破裂しそうになっていた、こちらの勝手な期待は果たして外れなかった。ポートピア以降の俺のADV観はこの1本で完全に刷新された。
昨今猫も杓子も使う「アップデート」どころの騒ぎじゃなかった。次元トラベルの中で空間トリップし続けているような、唯一無二のADV。それが『MYST』。

インターネットなき時代に本作を自力でクリアした時の感動は筆舌に尽くしがたい。

ゲーム史的に言っても、その後の国内外RPGやウォーキングシミュレーターというジャンルへの如実な影響が……や、ゲーム史云々の話はここではよそう。ここに挙げるどのゲームも、俺にとっては「自分を構成したゲーム」であり、それ以上でも以下でもないのだから。

(追記)
昨年、本作のリメイク・VR版『MYST』が発売された。当方、Oculus Questに必須であるFB登録を避けてきたため、これまでプレイせずにいたのだが、やはりこれをプレイせずには成仏できぬと思い立ち、3日前、FBに再加入し、Quest2を注文した。
はたしてあの世界がVRになった時、どんな驚きが待っているのか……楽しみである。
VRを持っていない方も、今日からXbox Game Passでリメイク版をプレイできるので、この機会にぜひ試して頂きたい。

 

f:id:lovemoon:20210820212734j:plain

⑥風来のシレン(1995/SFC/チュンソフト)

つい最近まで「自分はローグライクなゲームが好きなのだ」と思いこみ、それっぽい作品に積極的に手を出し続けてきた。

が、結局は初代シレンが大好きだったのだ、という結論に落ち着く。

当時、自分は初心な浪人生だったが、心は勉強にも恋愛にも向かわず、文字通り、「寝ても覚めても」今作とともに過ごした。

タクティクスオウガもドラクエⅥもテイルズオブファンタジアも素晴らしいゲームだったけど、朝晩取り憑かれたようにプレイしていた今作のせいで、この時期に出たゲームは自分の中で必要以上に印象が薄くなってしまっている(ドラクエⅥシナリオの素晴らしさに気づいたのは、クリア後、だいぶ月日が経ってからだった)。

後期SFCらしい完璧なドット絵も、和風すぎやまこういちな傑作BGMも、チュンソフトらしい快適操作とUIも、寡黙なシレンも小生意気なコッパも、ガイバラもペケジもお竜も、どのモンスターより恐ろしい店主も、全てが愛おしかった。

手持ちのROMカセットは内部電池が切れてしまってたから、30代半ばを迎えてからAmazonで新品を再購入。「フェイの最終問題」をどうにかクリアし、地球の裏側に再び出でた。中年になった今でも、俺の腕と勘は(少なくとも初代シレンにおいては)まだ衰えていないことに安心した…。

(追記)
シレンはその後、2、3、番外編(アスカ見参)4、5と遅々と展開した。筆者がクリアしたのは、初代以外は2と4のみ。アスカは環境的にプレイするのが難しかったし、やはり初代以外のシレンは「どうも違う」と感じてしまう。
「ローグライク」というジャンルは、今では海外作品の方が遥かに魅力的なタイトルを数多く生み落としたように思う(2019年『HADES』などはその成果・象徴だろう)。
やはり初代シレンは、奇跡的に幸福な作品だったのだと思わないわけにはいかない。本作もスマホなどでなく、コンシューマ機で早急にプレイできるようにしてほしいものだ。

 

f:id:lovemoon:20210820212920j:plain

⑦moon(1997/PS/アスキー)

思うところありすぎて、何を書けば良いのか困ってしまう。

「昨年ついにSwitchで配信されたし、もうすぐパッケ版も出るから、絶対やっとけ!!!」
それで終わらせてしまいたいところだが、それだけではとても気が済まない。
数多の熱狂的ファンや批評家たちによってすっかり語り尽くされている感のある今作。
己にとっては、世界の見え方をがらりと変えてしまった哲学書のような作品である。
あるいはクラブカルチャー、サブカル、世紀末感……90年代後半、自分にとって全てだった世界をそのまま封じ込めたCD-ROM。
本作はゲームでありながら、「ゲームを超えた何か」という感じがしてならない。
人生をすっかり変えてしまうかもしれない、それまで夢中になってきた「ゲーム」をやめさせてしまいかねない、超危険物。
でも、だからこそ『moon』はゲーム以外の何ものでもない。
もはやゲームから素直に感動を得られなくなっていた、すれっからしの俺をもう一度「ゲーム」に住まわせてくれた、まったき「ゲーム自体」。
すまん、自分でも何言ってるかわからんくなってきた。

CONTINUE? YES.

(追記)
思えば、当ブログは数年前、本作『moon』についてのさらなる考察を進めるために開設したのだった。

そして先週、Switch版をようやく購入して再プレイ(5回めくらいか?)しているのだが、いや、やっぱ凄いです、『moon』。
今改めてプレイしてみても、変わらず面白い。どころか、時を経て、ますます凄みを増した。ここには他の何にも代替できない世界(ムーンワールド)がある。
開発会社ラブデリックをバンドに喩えていた、感慨深いweb記事があったが、確かに『moon』を生み出したのはバンド・マジック、ケミストリーに由るものだったのだろう(本作のキーパーソン西健一氏がこの後、『moon』の精神的続編的作品を完成させた偉業については後述)。※Steam版配信決定、目出度い!

 

f:id:lovemoon:20210820213514j:plain

⑧ゼルダの伝説 時のオカリナ(1998/N64/任天堂)


世代的にゼルダはディスクシステム時代からほぼ全タイトルやっているのだが、正直、ドラクエと比べるとゼルダにそこまでの思い入れはない。
『神々のトライフォース』『風のタクト』『トワイライトプリンセス』もめっちゃ良くできてるな!と思ったが、「自分を作った」とは言い難い。
正直に認めよう、世界中で大絶賛されたBotWもそこまでとは思えなかった。
あれがオープンワールドの傑作なら、俺はこれからもクローズドワールドで結構。
時オカのみが俺にとってとくべつなゼルダである。
なぜか? 「広がる世界」を生まれて初めて感じたゲームだから。
BotWと比べるまでもなく、オープンワールドな世界ではない、まったく。
が、俺にとっては本作のハイラルこそ、生まれて初めて感じた、ゲーム内に確かに広がっている世界だったのだ。
エポナを手に入れ、高原を走り回っている時以上に「世界」を感じたことは、今のところ、まだない。
夕暮れ時、ロンロン牧場でマロンちゃんとオカリナ演奏しながら過ごした時間よりも麗しい青春を感じたことは、今のところ、まだない。

(追記)
本作に関しては、いずれswitchか、あるいは任天堂の次世代機で「完全オープンワールド」に生まれ変わったリメイク版が作られていると確信している。これほどよく出来た、そしてリメイクを待望されているゼルダはもはやないはずだから。
自分は、BowTをそれほど楽しめなかった人間として、ゼルダに関してはどうしても本作に魂が立ち返ってしまう。多少の思い出補正があるとしても、本作の持つ完成度と先進性、老若男女を魅了するそのワン・アンド・オンリーな有り様は、今なお、自分の内で「マスターゼルダ」の名を欲しいままにしている。

 

f:id:lovemoon:20210820213633j:plain

⑨L.O.L(Lack of love)(2000/DC/アスキー)

『moon』プロデューサー兼ディレクターだった西健一氏がラブデリック分裂後、数少ないスタッフと生み出した傑作。
『moon』が作り出したうずたかい「第四の壁」をよじ登り、ついに超えてみせた作品は今なお本作のみと感じる。
エンディングではいい歳して号泣した(物心ついてから号泣した最後のゲーム)。
坂本龍一氏がBGMを作ったにもかかわらず、本作はろくすっぽ売れてない。内容も恐ろしいほど過小評価されているように思う。(ドリキャスという幸薄ハードで発売したことと、高めの難易度設定に拠るところが大きいだろう)
おまけにリメイクもアーカイブもないから、『moon』と違って「やってくれ」と気軽に言うことはできない。
けど、もし。
本稿をここまで読んでくれて、「こいつとはけっこうゲームの趣味近そうだな…」みたいなことを感じてくれたなら、どうにかして本作をプレイしてみてほしい。とくに『moon』に強く打たれたゲーマー諸氏! 本作は『moon』唯一の精神的続編と思ってくれ。やれば、わかる。
しつこく。再発売(配信)をせつに、せつに、せつに、望む。

(追記)
実際、この作品のために古い液晶TVとまだ生きているのかわからないドリームキャストが手放せなくて困っている。
リマスター版出ないのは版権の問題なのか、西健一氏の気が乗らないのか……しかしあの『moon』を出せたのだから、やってやれないことはないのではないか。
SwitchでもSteamでも良いから、とにかく出しちゃって頂きたい。
本作を『moon』をこよなく愛する者や『Undertale』ファンや、『MOTHER』に打たれた海外ゲーマーに届けられない現状は「異常事態」と言っても過言ではないだろう。

 

f:id:lovemoon:20210820214048j:plain

⑩スプラトゥーン(2015/WiiU/任天堂)

本作発売時、70年代生まれの俺はとっくに「中年」と呼ばれる年齢にたっしていた。

当時は5、6年、意識的にヴィデオゲームと離れていた。

本作はそんな「まさか」という頃にやってきた、俺のラスト・オブ・アオハルだった。

そしてそのアオハルは俺を(おそらく)最後に魅了し、「再構成」した。

それまでスタンドアローンでしかゲームしなかった俺に、本作はオンライン/共闘でしか味わえないゲームの楽しさと厳しさを骨の髄まで叩き込んだ。

その体験は視界を塗り替え、時間感覚を刷新し、現実を異化した。

『PUBG』も『Overwatch』も『Fortnite』も面白かったけど、初代スプラから受け取ったあのJOYにはとてもじゃないけど届かない。

あの頃、夢中になって1日中プレイしてたイカ中毒者なら、汗を流しながらでっかいゲームパッドを握りしめていたあの2年間を死ぬまで忘れることはできないはずだ。

(追記)
これだけスプラにドハマりした自分だが、2は本作の10分の1もプレイしていない(その理由については3をプレイした上で、改めて考察してみたいと思う)。
ちなみに本作のプレイ時間は2000時間以上、メインブキはデュアルスイーパー、Sランク。まあ凡庸なイカである。しかし本作はとにもかくにも、立派な中年となった俺を、ヴィデオゲームの世界にすっかり引きずり戻したのだった。


以上10本が「75年生まれの俺を構成したゲーム10本」である。 

さらに続けて、75年生まれのハートのど真ん中の最奥部に抜けないほど深く突き刺さった「テン年代ゲーム・心のベストテン」10本を——こちらは「ランキング形式」で挙げていきます。
そういうわけで、残り片面もお付き合い頂ければ之幸い。

 

【Side-B】
テン年代ゲーム・心のベストテン(ランキング順)

f:id:lovemoon:20210823225413p:plain

●特別賞『Doki Doki Literature Club!(ドキドキ文芸部!)』(2017/PC)

のっけから「特別賞」から始めることをお許しあれ。ランキング発表後だと、1位よりもスペッシャルな空気を醸し出してしまいそうで。それを避けたかった。

でも、本作がとくべつな1本であるには違いない。だから悩んだ挙句の……「特別賞」。まんまでごめん。

個人的には『ノベルゲー」ってそれほどやらないんです。ノベルゲーやる時間あったら小説読むほうが(たいてい)有益だろう、という長年の思いこみ集積のせい。
でも、『Doki Doki Liteature Club』は違った。ゲームらしいインタラクティブな要素があるわけじゃないのだけど、小説でもマンガでもアニメでもこの表現は絶対不可能。

本作の凄さについてはもはや語り尽くされている感があるし、強く深い思い入れを持っている方が世界中にいらっしゃることも存じておりますし、まだプレイしていない方のためにも、内容については何も言いたくない。

でも、これだけは言わせてほしい。

本作は「神は存在を愛している」ってことをギャルゲー/ノベルゲーのガワで見事に顕してみせた一大叙事詩である。ここには生があって、性があって、詩があって、死があって……愛がある。さらには現象学的「彼方」をも開示してみせる。

その(一見)破天荒、かつ強烈な内容に憤怒するかもしれない。ショックのあまりマウスを壁に叩きつけるかもしれない。号泣するかもしれない。戦慄するかもしれない。でも最後にはきっと宇宙大の愛に包まれる……絶対。

(追記)
本作は2021年に完全版/パッケージ版がリリースされたが、未プレイの方にはPC無料版からプレイして頂きたいとせつに願う。理由は書かない。やればわかる。
それにしても、「Just Monica」のフレーズが一部の世界を席捲した本作のヒロイン、モニカ嬢の存在力(と言うべきか)は凄まじい。このキャラクターを創出しただけでも、本作は歴史に残るギャルゲー、いや、現象学的ポエムゲーであり続けるだろう。

・・・・・・・・・

さて、ここからは、心置きなくテン年代・我が心のベストテンを発表させて頂きます。

・・・・・・・・・

f:id:lovemoon:20210823225554p:plain

10位 『ASTRO BOT Rescue Mission』(2018/PSVR)


「……なんか懐かしい感じやな。子供の頃、お前と行った鵠沼海岸をまざまざと思い出したわ」

ゲームと本の山でとっ散らかった僕の部屋にやってきて、このゲームをしばらく遊んだ君は、重たいPSVRヘッドギアをつけたまま、そう呟いた。

僕はかなり潔癖症だから、君が顔じゅうに汗をたっぷりかいてることがひどく気になって、除菌ティッシュ片手にそれどころじゃなかった。

けどさ、あの頃君と一緒に見つめた空と海の青さに、まさかVRの新規アクションゲームの中で出会えるとは夢にも思わなかったよ。

ハタチん時、『スーパーマリオ64』を初めてプレイした時の驚きと、海辺で自分の子と君の子が一緒に遊んでいるのをぼんやり眺めてるような、そのうちに自分たちも同じくらい小さな子供に戻って、一緒に無邪気に冒険してるような……切なくて温くて微笑ましい気持ちがじわじわこみあげてきた。そのことに、僕は本当に、心底驚いたんだ。
またいつでもやりに来てくれ。

(追記)
Oculus Quest2は現在なおニッチなVR界をじわじわと支配し初めているが、本作を初めとする何本かの傑作VRゲームをプレイすることができるのは、今もPSVRのみであることを鑑みると、まだ壊れかけたPSVRを手放すわけにはいかない(修理費が痛いが…)。
本作はVRアクションゲームのマスターピースなのだから(SCEIが本作をステイ・ホームキャンペーンで無料配布していたことからも、その思い入れの強さが伺える)、PSVR所有者には必ずプレイしてほしい。
「VR界のマリオ64」という異名は、誇張でも諧謔でもない。やれば、わかる。

 

f:id:lovemoon:20210823225750j:plain

9位 『ショベルナイト』(2014/PCほか)


「あー、なんかシャベル持ったナイトのやつでしょ。古き良きアクションゲームへのオマージュに溢れる良質なインディーゲーって感じだよね、え、あれってまだアップデートとかやってんの? なんかSteamセールん時に買って積んでんだけど、ま、そんな面白いならそのうちやるわー」

あなたが『ショベルナイト』をその程度のゲームだと思っているのなら、それは大きな大きな間違いだ。

プレイ済みの方はとっくにご承知と思うが、本作はレトロゲーもオマージュゲーもとっくに越えた、誰も登れない山頂に到達した類い稀な作品である。アイロニーと切り張りだけで制作された、この10年で数えきれないほど溢れ返った凡百のレトロ風ゲームとは、かけ離れた聖域に屹立してゐる。

そして3つの追加アプデ(大胆なアイデアに溢れた全く新規追加シナリオ)によって、本作は10年代下半期にリリースされた『Celeste』『ホロウナイト』の先駆けとなる、傑作2Dアクションとしてここに完成したのだった。
さあ、ショベルを手に彼の地へ赴け。

(追記)
本作の続編を長いこと待ち望んでいるのだが、最近ようやっと発表されたのは、落ちものパズル『ショベルナイト・ポケットダンジョン』であった……(涙)やりますけど(笑)

 

f:id:lovemoon:20210825231213j:plain

8位 『Undertale』(2015/PCほか)

本作の印象を喩えて言うなら。

久し振りに会って酒でも飲もうものなら、いちいち熱くてしつっこい口論になってしまう、共感と嫉妬と軽蔑と相いれなさのような感情を腑分けするのが難しいくらい綯い交ぜになっている面倒きわまりない幼なじみ、みたいな。

正直、このランキングにはあまり入れたくなかった。が、初プレイ時の衝撃をまざまざと思い出してみると、やはり入れないわけにはいかぬと悟った。

もし未プレイだったら、このゲームはできればPC(steam)でやってみてほしいとせつに願う。当方バリバリのコンシューマー勢なので、ゲームでPC版を薦めることは滅多にない。が、コンシューマー機ではこのゲームの持つ「鋭利なナイフ」のような「最後の一撃」が半減してしまうだろう(その点は『Doki Doki Liteature Club!』に酷似している)。

作者トビー・フォックス氏は、かつての堀井雄二や糸井重里の系譜に連なる倭人的王道・ゲーム・シナリオライターと感じる。

確認のために本作の或るルートを進めていた時、初期ドラクエと『MOTHER』『moon』が携えていた「あの空気」が、30年ぶりに匂い立ってくるのを感じて眩暈がした。会えば会うほど凄みを増す狂人のような作品だ。

続編『DELTARUNE』において、トビー氏は堀井/糸井が書け(書か)なかった領域に確信犯的に踏み込んでくるにちがいない。それが半分楽しみで、半分怖くて仕方がない。

(追記)
『DELTARUNE』は一昨年、体験版が一斉配布されて自分もプレイした。
が、正直、出すタイミングが早すぎた、あるいは出すべきではなかったのではないか…と今では思う。
バトルがパーティー制になっていたこと以外、もはやほぼ思い出せない。少なくともChapter 1の内容にそこまでの新鮮味はなかった(そういうのは2作目の宿命ではあるが…)。
『DELTARUNE』が近々リリースされるのであれば、Chapter1とは全く違った、ファンを良い意味で裏切ってくれる(難しいだろうが)異質な作品であってほしいと、自分勝手に願うばかりである。

 

f:id:lovemoon:20210823225903j:plain

7位『Deracine』(2018/PSVR)

その山の森の奥には古い洋館があった。

庭は川と繋がっていて、澄んだ水が静かに流れていた。

君は川沿いにしゃがみこんで1輪の花を流していた。

僕は黙って君を見つめていた。

君は僕に気づかない。

僕は木に上ったり、柱の影から君を見守ったり、触れられない手で君の髪を撫でたりしているうちに……君の可愛がってたシェパード犬がこちらにひょこひょこやってきて、ワン、と小さく吠えた。

ああ、なんだかこのゲームやってると批評的目線がどんどんぼやけていくのを感じる。まるで透明な死者になってしまったような、奇妙で懐かしい感覚に否応なしに包みこまれるような……。

本作は「VRで描かれた古典的AVG(アドベンチャーゲーム)」であると言われている。が、個人的には、そんな持って回ったような言い回しはしたくない。

VRでしか描けない世界と情緒に対して、あまりに意識的な本作。その手腕はあざといくらいなんだけど、実際に本作をやってみるとあざといどころじゃない。泣くわ。胸の内に熱いものがこみあげてくるわ。

『Deracine』はプレイヤーの原風景をまざまざと蘇らせる。かつて失ってしまった友人を、失ってしまった動物を、失ってしまった思い出を、「ほら」とばかりに目の前に差し出してくる。そのやり口はほとんど暴力的でさえある。

(追記)
本作については、過去に長文記事をアップしているので、本記事を読み終えた後にでもぜひ。

meikyoku-gamer.hatenablog.com

 

本作発売から3年経った。相当な思い入れある本作もPC系VR機器ではプレイできない。痛い。
SCEI作品をプレイするためにはPS5を購入するしかないというのは致し方なし……とは言え、本作はOculus Quest2でもプレイできるようにしてほしい。

販売本数はおそらく(予想通り)振るわなかったのだろうが、本作はプレイした多くの者の心にいつまでも残り続けるだろう。少なくとも、僕の心には相も変わらず残っている。また彼ら彼女らに会いに行く。絶対。

 

f:id:lovemoon:20210823230056j:plain

 6位 『INSIDE』(2016/PCほか)

書き始めるまで、本作がここまで自分内上位に食い込むとは思わなかった。

が、確認のために軽くプレイしてみたら、やっぱりとんでもなかった。

実験施設内部に、そして自分の内側(Inside)に展開するめくるめく不穏な景色。ディストピアの先にある、吐き気をもよおさせると同時に、穏やかな安寧に包まれるような、唯一無二のビジョン——を完璧に描ききった本作。

終盤の怒濤の展開と比類なき生命体描写のインパクトに心奪われるが、本作の真骨頂は木々や空や雲や雨、海などの自然情景(それが何者かによって造型されたものであれ)の美しさだと思う。荒んだ世界の中、思わず立ち止まって、天に祈りを捧げたくなるような敬虔な心持ちを強く喚起させる。

自分にとって『INSIDE』とは、自己の内面に深く潜るための潜水艦、あるいは哲学書のページを繰っても繰っても掴めない、自分と世界との乖離を自覚するための尖った注射針であり、神なき世界の宗教である。

灰色にけぶった空の下、雨降るトウモロコシ畑で無心で佇んでいた時のあの安寧と絶望感に、これから先もずっとつきまとわれることだろう。

(追記)
Playdead最新作は「星を探索するオープンワールド3Dになるかもしれない」と、以前製作者が語っていたが(イメージ画像も出ていたと記憶している)、Xboxオンライン発表イベントで発表されたのは『INSIDE』に近い雰囲気の、ディストピア世界を舞台とした『Somerville』だった。
『LIMBO』『INSIDE』のような凄みは感じなかったものの、Playdeadの作品は我々に激しい驚きを伴う体験を与えてくれると確信しているので、安心して慄きながら(笑)待っている。

 

f:id:lovemoon:20210823230019j:plain

5位 『バウンド 王国の欠片』(2016/PS4/PSVR)


もしVR対応しなかったら、知る人ぞ知る良作(怪作)止まりだったであろう本作。

かくいう自分もPS Storeで見つけて何となく買った時は、まさかオールタイム・ベストに入れることになるとは夢にも思わなかった。怪しい仮面被ったバレリナ少女がサイケ空間を飛び回ってんなあ……製作者はドラッグでもやってんのか?くらいの。

だがPSVR対応した本作を再度プレイして驚愕した。怪作がまごうことなき傑作に生まれ変わっていたのだ。あるいはコンテンポラリーアート作品としての本質を露にしたとも言える。ああ、VRというハードではこんな事態が起こり得るのか……。

グラフィック周りを担当しているサンタモニカ・スタジオ(ゴッド・オブ・ウォー、風ノ旅ビト他)の仕事はいつだって凄まじいクオリティでため息漏れるのだが、VRとの相性は抜群だ。とりわけ、今作での仕事は白眉と言える。

とにかく、思わず自分と少女の頬をつねりたくなるほど美しい。少女が、景色が、色彩が、確実に「もうひとつの世界」(夢、とは決して言いたくない)を現出させている。

そして本作は本質的な意味で——究極の恋愛ゲーでもある。たとえ誰も認めなくても、俺はそう強く感じる。あの少女と過ごした時間を、あの少女が内に秘めていた小部屋を、あの少女の前に立ちはだかる怪物を、そして狂気と色彩にみちみちた世界を日常生活の中で思い出す時、この胸に去来するのは——それは「恋」としか言い様のない感情だ。

(追記)
付け加えることは何もない。PSVRでしか絶対にプレイできない本作を数多くの人がプレイできるようになることを願うばかり。続編……そこまでは望むまい。

 

f:id:lovemoon:20210823230152j:plain

4位 『スプラトゥーン』(2015/WiiU)

前稿『俺を構成したゲーム』に続いて2回目のイカ登場。そんなのアリか? コンテクスト(文脈)が違うから異化してアリ。

人の生には「もっとも幸福な時期」というものがたしかに存在するようだ。そして、それは必ずしも幼少期だったり青年期だったりする必要はない。

俺にとっては、傍らに愛猫がいてくれて、WiiUと3DSが現役ハードで、仕事から帰ってくると毎日のように今作にあけくれていたこの頃が——生涯でもっとも幸福な時期だったと言いきってしまいたい。なぜなら、幼少期や青年期と違って、その記憶ははっきりと想起できるから。

そして後から振り返ってみて、その時期がどれほどありがたいものだったかを確認し、やるせない気持ちに包まれるのだ。「ああ、やっぱり」と。

総プレイ時間は生涯最長となったし、この作品を通じて(自分にしては珍しく)老若男女多くの「オンラインフレンズ」ができた。

が、続編『スプラトゥーン2』は発売日に購入したものの、ろくすっぽプレイしなかった(できなかった)。

その理由は(おおざっぱに述べると)3つ。

ひとつは『2』発売時、先に述べた、俺にとってもっとも幸福だった時代が過ぎ去っていたこと(ごく個人的な理由だ)。

ふたつめは、初代スプラトゥーンが持っていた、俺を夢中にさせるサムシングが『2』には欠けているように感じられたこと(批評記事ではないので、それについてここでは掘り下げない)。

3つめは、次に挙げる同じく任天堂開発の対戦ゲームの登場である。

 

f:id:lovemoon:20210823230227j:plain

3位 『ARMS』(2017/Switch)


それは35年前に夢見た未来の『パンチアウト!!』だった。そして20年前に夢みた『バーチャロン』と『カスタムロボ』の奇跡的融合であり、同時にそれらとは全く別次元に昇華された「新しい格ゲー」であった。

『スプラトゥーン』で「共闘」の愉しさを味わった俺に、本作は「見知らぬ相手とサシで戦う」ことの妙味と厳しさをばっちり思い出させてくれた。

そしてただならぬ魅力と実感溢れるキャラをこの手で操る——そんなあまりにもプリミティブな「ゲーム」の喜びが本作には隅々までみちていた。こればかりは「Just do it」(やるっきゃない)。

やがて俺は日々のオンライン対戦では飽き足らず、リアルの大会まで足を運んだ(あっさり敗退してしまったが……)。そんなゲームは、おそらく生涯最初で最後だろう。

(追記)
Joy-con特性を生かした「いいね!持ち」による操作こそが本作の革新性であると信じているのだが、革新性よりも「合理性」と「勝率」を求める猛者たちには浸透しなかった。

「いいね!持ち」メリットをうまく調整できてさえいれば、本作は『e-sports』ゲーム初の従来型コントローラーから離れた(両腕全体を用いた)操作形態を実現していたはずで、それについては至極残念ではあるが、現在開発中であろう『ARMS2』に期待したい。

 

f:id:lovemoon:20210823230300j:plain

2位 『Rez infinite』(2016/PSVR)


2010年代下半期は、俺にとっては「VRに初めて触れた年代」としていつまでも記憶されることになるだろう。

2017年冬、とにかく『Rez infinite』をプレイしなければならない——そんな義務感からPSVRを勇んで購入した。配線がややこしい機器をPS4に繋げ、想像していたよりずっと重たいヘッドセットを被り、本作をプレイすると——すぐに「ここには未来がある」と思った。いや、正確じゃないな。「未来に至る——今の時間と自分」をばっちり感じたと言うべきか。
現在は可視化され、360度方位に顕在し、俺をユニバーサルに包みこんだ。

AreaXを初めてプレイした時の、重たい身体感覚から自由になり、魂だけが全宇宙に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから過去30数年を振り返ってみても、5歳の時に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後の体験だった。

それは精神開放であり、身体解放だった。言葉遊びに非ず。

これだけ長いこと「ゲーム」なるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚を初めて得られたことに深く感動し、ラストステージではほとんど泣いていたことがつい昨日のように思い出せる。

そして『Rez infinite』の「次の体験」を今か今かと待っている。

 

f:id:lovemoon:20210823230352j:plain

1位 『とびだせ どうぶつの森』(2012/3DS)


『Rez infinite』からのまさかの……自分に驚き、何度も自身に問うた。

あれだけ昔から『どうぶつの森』嫌いだったお前が。とび森を。テン年代1位に。据えるつもりか?

お前はそんなにぶつ森好きだったのか?
ありがちな中年男みたいに「しずえ萌え」になったのか?
それとも親子くらい歳の離れたフレンドと時々会えるからか?
おいおい、かあいこぶってんじゃねーぞ、と。

だが本作を1位にした決定的な理由——それは、テン年代初頭に放たれた今作から「仮想世界」における、人間存在の理想的な在り方の萌芽をひしと感じたからだ。

一発で脳内に凄まじいヴィジョンを注入した『Rez infinite』と比べると、まるでアリが餌塚に砂糖を運ぶようなゆったりとした足取りだが、本作は確実に世界中のゲームファンに「もうひとつの世界」をキュートな顔つきと口調(しずえ嬢のような……)でじわじわと浸透させ、人々の無意識をしれっと変容させ、もうひとつの生活を愉しませ、ネット接続により文字通り「飛び出させた」。

『どうぶつの森』は『あつまれ どうぶつの森』においてさらなる大きな広がりと変化を見せてくれた。

が、俺は本作をとくべつに、個人的に、偏執的に、限定的に愛しているようだ。

それは故岩田社長時代に生み出された『3DS』というハードへの偏愛と、ゲーム機では3DSだけが備えた「裸眼立体視」——ARとVRを折り合いし、先取りした——唯一無二の機能によって『どうぶつの森』というクローズドな世界をまるで飛び出す絵本のごとく彩り、「夢の中で他者の森を訪ねる」という奇妙かつ魅惑的な通信世界を生み出し——要は、全シリーズを振り返っても今作『とびだせ どうぶつの森』だけが持ち得た、この奇妙で牧歌的で神秘的なアトモスフィアに由るものだ。

カフカ『城』や村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』主人公のように、俺はある時、この森の中に、夢の中に、村の中に、これからも留まり続けることを選んでいた。

そういうわけで、迷った末に、本作をテン年代1位に据えたいと思う。

(追記)
結局、『あつまれ どうぶつの森』を早々にリタイアし、またこの森に舞い戻った。
住民はお決まりの台詞を繰り返すばかりだし、欲しい家具もほぼ揃えてしまったし、「夢見の館」で赴けるプレイヤーたちの夢は2020年以前の残夢しかないし、オンラインで一緒に遊んでくれていた歳の離れたフレンドもとっくにいない。
なのに。どうして、とび森にそこまで固執するのか? 
……わからない。現時点では、ある種のノスタルジーと、本作の空気がとくべつに自分に合っていた。そういうことにしておこう。
そういうわけで、とび森、これからもやってきます。まだプレイされてる希有な方、いらしたらぜひフレンドなりましょう。

 

ライナーノーツ(あとがき)

当オールタイム・ベスト記事に長々とお付き合いくださって本当にありがとうございました。

異論提言はもちろん、よかったらあなたのオールタイム/テン年代ベスト(5本でも10本20本でも1本でも)も教えて頂けると、いちゲームファンとしてめっぽう嬉しいです。それにしても、10年はディケイド、ですね。おあとがよろしいようで…。


と、ここで終わらせてしまっても良いのですが(その方が相応しいのかもしれませんが)、もう少しだけ書かせてください。

当記事は「オールタイムベスト」で括っているものの、「75年生まれの俺を構成した10本」と、「テン年代心のベストテン」では、書いた時期と趣旨が若干異なっています。
 
時期的にはまず「テン年代・ベストテン」を2019年末、noteに記しました。
2019年終わりに当たって、2010年代に出会った、2010年代らしい衝撃をもたらしてくれたゲームたちを、個人的「オールタイム・ベスト」という形でまとめておきたい気持ちが湧き上がってきたことが発端でした。
ここには自分の趣味嗜好に加えて、無意識的に(あるいは意識的に)時代的・歴史的な視座での取捨択一があったように思います。

「75年生まれの俺を構成した10本」の初出は「はてな匿名ダイアリー」。所謂「増田」に出しました。実のところ、ホッテントリ入りを狙って書いたのです。

匿名ダイアリーに書くことにした最大の理由は「ブコメ」でした。
匿名でアップすることによって、ブクマしてくれた方々が、その人たち自身の「自分を構成したゲーム」を書き残してくれるのではないか?そんな淡い期待があったのです。
また、僕のような無名な書き手がオールタイムベスト記事を挙げたところで、食いついてくれる人がいるとも思えなかったので。

もし運良くある程度読まれたとしても、ブログにコメントまで書いてくれる人はおそらくほとんどいなかったでしょう。僕はゲームファン(あるいは元ゲーマー)が「自分はこれ」と挙げてくれる1本を、できる限りたくさん知りたかった。

この目論みは(運良く)成功して、ありがたいことに600以上のブクマを獲得し、250件のコメントそのほとんどに、「心から推すとくべつな1本」が含まれていました。

ただ、その時はホッテントリ入りさせるためにかなり文章量を削り、増田らしい平易な文体で書くことを試みたので(うまく書けたかどうかは別として)、改めて、追記/後日談を含む「完全版」を書きたいとずっと考えていました。
 
自分にとってのオール・タイム・ベストは、眺望的な視座で、歴史的意義を考慮して編まれた「ゲーム史研究的」ベストではなくて、あくまでいちゲーマーとしての個人的な「好き」に由っています。

では、「好き」とはどういうことなのか? 
それについて自分なりに掘り下げながら、再構成・大幅に加筆訂正したのが本稿です。

個人的な「好き」に特化・収斂しているとはいえ、70年代生まれのいちゲーマーを構成した、ある時代のゲーム史的記録として読んで頂いてもいっこうにかまいません。
同世代のゲーマー・あるいは当時を知らないゲームファンの方々にとって、何かしら共有・共感できるsomethingが本稿に含まれていれば、いちゲーマーとして心から嬉しく思います。

最後に。
ここに挙げた20本のプレシャスなゲームたちと、製作者たちに心からの感謝を捧げます。好きなゲームたちが、これまで僕の人生を育て、彩り、救ってくれたと言ってもけっして大袈裟ではありません。そして、そういう方はこの世界にたくさんさんさんいらっしゃるはず。僕はそういう方たちとこれからもコミュニケーションしていきたいです。

剣呑かつ変化の著しい現世界ですが、2020年代も、多くの素晴らしいゲームと出会えることを願うばかりです。文責/ラブムー