めくるめくメルク丸

ゲーム/哲学/人生

ムーンワールド再訪記(12)初夏のご挨拶

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ご無沙汰をしていました。

そちら、お身体と精神の調子はいかがでしょう。

こちらは1週間ばかり前から、季節の通奏低音ががらりと変わったのをひしひし感じて惑っています。急にあったかくなって、木々の緑が力強く万緑を漲らせるかの如く、意気揚々と生命力をはっしている。その速度と熱量にどうやらついていけてないっぽい。

先日は大通りを戸惑いながら仕事場に向かって歩いていましたら、巨大な蜂や鮮やかな蝶たちが「ここを先途」とばかりに飛び回っていて、逃げるように足早に歩いていたら、あるスポットでふいに濃い草いきれを感じ、大袈裟ではなく、これじゃここ(道端)で倒れてしまうぞ……

と少しばかり不安になって、両手で鼻と口を覆ったまま、職場までの道を小走りに急ぎました。すると、たまたまイベント的な何かが催されていたらしく、大通りにフォーマルな服に身を固めた楽団がずらりと整列しているのが見えました。指揮者がうやうやしくタクトをひと振り——賛美歌でしょうか? あからさまに神々しい曲がうら若き女性たちの美声とともに演奏され始めました。こういうことってそうはないので、老いも若きも店の人も客の人も、ずいぶん多くの方々が外に出てパレードを楽しんでいたもよう。僕もも少し体調が良かったら、立ち止まって、いつもとは違った街の違った空気を少しは楽しむこともできたのでしょうが。

そんなこんなで(叔母の口癖)、時節はいよいよ名実ともにまったき初夏のようです。

個人的なnervous話ばかりで恐縮ですが、僕はこの時期、梅雨前が昔からもっとも弱い。今年も例外ではなさそうです。夏風邪と何らかの花粉効果が相まって、数日寝こんでいました。今日も熱とリンパ炎でそこそこ苦しんでいます。けどまあ(旧友の口癖)、不調な時に猫丸、じゃない、寝こめることを心からありがたいと思うべきなのでしょう。

で、寝こんでいる時にもっとも有用なのが携帯ゲーム機と文庫本です。寝こむたびにそれを強く実感します。ここ数日は先日知人におかりした文庫本を読んだり、PS VITAのリモートプレイで『moon』を……ではなくて、先日購入したばかりの新しい3DSで『とびだせ どうぶつの森』に勤しんでいました。

ダメじゃん、それ。ムーンやっとけ、オレ。

と、もう1人の自分が苛立ち混じりのラッパーの口調で鼓舞してくるのですが、だって、おもしろいんだもの、どうぶつの森(それについてはまた別の場所で記す機会もあるだろう)。

っていうか、やってみてわかった。ぶつ森は『moon』はとても似ている。愉しさの本質要素に、双方通じるところがある。

その愉しさとは? ひと言で言えば、「その世界に住まうこと」。

っていうか、ぶつ森って『moon』に着想を得たんじゃないか?ってちょっといぶかしがっちゃったくらい。

っていうか(3度め)、もし『moon』のキャラと世界観で「どうぶつの森」ライクなネットゲームを作ったら、最高だろうな。互いのムーンワールドを行き来できて、プレイヤーは好きなキャラを選べて——王様とかヨシダとかガセとかアニマルでも——、服を買って着せ替えしたり、家を建てたり、部屋のインテリアコーデしたり、MDを交換したり、釣ったレアな魚を売ったり、ピクミンみたいなたくさんのカクンテ人を連れ回ってキノコの森の中を探検したり。今からでもいいからそういうの出ませんかね。絶対出ませんね。

それにしても、寝こんでいる間にぶつ森やっててつくづく思った。『moon』の世界設定とキャラ設定は(今更ながら)、なんて凄まじかったのだろうと。

まあ、ぶつ森には物語はあってないようなものだけど(物語性の「無さ加減」が魅力なのだから)、少なくともキャラデザに関しては『moon』の方がずっと優れてると思ったね。ぶつ森もさ、もちろんわるくはないっていうか、やっぱりとんでもなく凄いんだけど、どうもキャラが画一的なんだよな。個々の性格とか、あってないような感じだし。ほのぼのしてれば良いってわけではないだろう。まあ、でも小さな子がたくさんやるからな、あれは。ほのぼのしてなきゃいけないのかもしれない。

でもこう言っちゃなんだけど、『moon』は世界も物語もピリ辛なんよ。ある種の哲学でもあるし。そうそう、現象学者のエマニュエル・レヴィナスさんっていう御仁が言ってたらしいけど、「哲学はステーキ」みたいなもので、赤ちゃんに食べさせるものじゃないって。『moon』は流動食でもお粥でもないからさ、咀嚼して、栄養として摂りこむにはそれなりの努力と経験が必要なわけよ。わかるかなー。

……もうこの口調やめよ。

あ〃、読み直してみると、ここまで1730字は何も言っていないも同然じゃないか。deleteするか、けっこう迷ったのだが、せっかくだから残しておく。だいいち、deleteしても今日は新しいのをしたためる気力がない。そういうわけで、今日は自分を甘やかすことにしよう。

そういうわけで、気を改めて。

昨晩、数日ぶりに『moon』をやってました。けっこうな数のラブを集め、けっこうな数のモンスターのソウルをキャッチし、けっこうな数のMDをかけてムーンワールドをうろつき回っていました。そうして、このムーンワールドを出るべき時が刻一刻と近づいているのをひしひし感じていました。どうやらこの再訪記も、ろくでもないことばかりを記しながら、終盤を迎えつつあるようです。

(もうちょっと続きます!)

ムーンワールド再訪記(11)チドリアシ デ メドツイタ?

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こんにちワンワン、愛犬タオと私です。

すみません、今日はのっけから謝らせて頂きたい。

それというのも今日は(今日も、とは君まで言うな)すこぶる酔っぱらってゐるので(ワンダの店における兵士の如く)、ここ「再訪記」において、「同じゲームについて12回も記せばきっとこのへんまでは……」と、なんとなく設定していたメルク丸(とりまの到達点)に至ることはできそうもありません。

え、そんなこと誰も最初っから期待しちゃいない? そもそも、酔っぱらってるならブログなど記すなよ? そんな君ノ声が聞こえた、ような気がした。

しかし、ろくすっぽゲームが進まなくても、行為は無為よりもほんのちょっと優れている——という強引なモットーで日々運営しているので、ここはいっちょ、こけら落としめいた気持ちでやってみます。ただ、途中で机につっぷしてエンターキー押しちゃって中途半端に更新されちゃう、あるいは記事全消滅だけはどうにか避けたいモノです。

唐突ですが、ちょうど『moon』を再開したのと同時期に、これら文庫本を度々読み直していました。おもに入浴時。だから何だ? すみません。

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)

 
レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

レヴィナスと愛の現象学 (文春文庫)

 

どちらもすっごく面白い本なので、ちょっと簡単にご紹介します。

『翔太とインサイトの夏休み』は「小さな男の子が夏休み、部屋で哲学者の猫とひたすら哲学対話する」。語り口は平易ですが、内容はあまりにも「哲学」しています。初めて読んでから10年以上経っていますが、何度読んでも読み飽きる、ということが全くない。学問としての哲学ではなく、日常生活、人生の中で生きた哲学をしたい(あるいは必要な)方に強くオススメ。池田晶子さんのベストセラー『14歳の哲学』が響いた方にも。

『レヴィナスと愛の現象学』はエマニュエル・レヴィナスさんという仏哲学者(厳密にはフランス国籍のユダヤ人哲学者)の難解かつ融通無碍な思想を、彼の自称弟子であり著述家であり武道家である内田樹(樹でたつると読みます)氏がわかりやすく(かつ敢えてわかりにくく)解説というか、解釈して述懐している本。「愛の現象学」と、きわめてキャッチーなタイトルがついてますが、実際レヴィナスを知らない人(僕は知らなかった)にもフランス思想に疎い(僕は疎かった)人も「なんとなくわかったような気分」で読めるうえ、知への愛に溢れまくる内容です。

「副読本」というのでもないのですが、これらの本をたまたま再読していたことと『moon』を再びプレイしていることは、自分の中でゆるく結びついているようです。それについて——「それ」っていうのは、上記の本を読みながら『moon』をプレイして感じたことです——筋道立てて、シラフな語り口でうまく説明できれば良いのですが、今日はちょっとできそうもないので、先延ばしにします。

それで、今の僕にどうにかこうにか判るのは、

「自己と他者」「ライン(境界)を越えること」が、僕にとって、かねてからずっと大きな主題であるってことです。自己内テーマっていうか。あまりにもざっくりしてて、あまりにも本質的であるため、どのようなジャンルにおいても、そんなことをわざわざ明言するのも野暮(何を言ったことにもならない)って気もたっぷりしますが。

でも、上記2冊はそうしたことについてたっぷり記されています。あるいは「そこ」に導く導入の書になっていると思うのです。そして『moon』も「そこ」にきわめて自覚的な作品だと僕は思う——思うっていうか、これはもう自明。『moon』に内在するテーマとは「自己と他者」であり「境界を越えること」。そうでなくてもそういうことにしておこう。このことはどんなに酔っぱらっていてもしっかと心に留めておきたいとこ。

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そして、この『moon』というゲームを立ち上げることによって現出する「ムーンワールド」なる世界は、僕にとっては僕の内側に(元々)在る世界と、この確固とした(ように見える)現実世界の狭間あたりに位置しているように思います。それを掌握したい。リンボ(中間地点)から、見える世界と見えない世界をダブル・ブッキングしたい……そしてDASH(奪取)する。

ああ、何だか、「大風呂敷広げすぎ感」が出てきて参りました。

そろそろ今日は最後にします。早く寝たいので。

唐突に響くかもしれないけれど、ムーンワールドにおける全てのキャラクター・登場人物は「死者」であります。主人公である透明な少年以外は全員。いや、ある意味では透明な少年も死者なのかも知れない。そこはちょっと保留。

だから『moon』をプレイする者は死んだモンスターと、透明な少年と、ムーンワールド住民たちを全員、一切合切弔わなきゃならない。弔いは責務だ。ここムーンワールドに落っこちた瞬間から、プレイヤーはその責務を有している。現実において子宮からこの世界に産み落とされた瞬間、この世界に関わる権利と義務を得たのと同じように。

しかし死者を「本当に」弔うことは、それほど簡単な話ではないだろう。「他者」を真に近い場所で認識することや、私(君)が、私(君)のこの世界における独自性(一回性)を捉えることが(認識としても実感としても)それほど簡単ではないように。

ムーンワールドにおける僕が「透明」であることも、ムーンワールドが、ここ現実とゲーム世界の「中間地点」に位置していることも、『moon』というCD-ROMの中にムーンワールドが存在して、そこから出るためには現実のプレステ(初代プレステであれプレステ3であれ)から、その手でディスクを取り出すことも、そう簡単ではないだろう。

いや、そもそも、ディスクを取り出す必要はないのかもしれない。

なぜなら、僕はこれからもやり続けるから。この世界において。どの世界? これだよ、これ。今、コントローラーを握っているまったきここの話。いったい何の話をしているのかね? どうも気に入らんな。もっとさくさくとプレイして、ラブレベルを上げて、書き連ねたるって心構えはないのか。まあ、酔っぱらっているからしゃあない。

はい。

とにかく「それ」が SDカードであろうと、GD-ROMであろうと、ROMカートリッジであろうと、Blu-rayディスクであろうと、僕はその媒介を自分の手で引き抜くことよりも、この媒介の内において、この媒介のフェンスを越えること——それが僕にとってかねてより必要な、重要な、喫緊の所業であるだろうと思っている。そして今日はそろそろシャットアウトすることが、かの鳥男によって勧められている。

と、に、か、く。僕にわかってることは、近日中に『moon』を終わらせなきゃならないってことだ。とにかく来週中にはエンディングを迎えたい。迎えよう。とりあえずの「目処」が立って良かった。そうだね丸。

ムーンワールド再訪記(10)世界の終わりと『どうぶつの森』

こんばんは。昨日は1週間の疲れがどうにも溜まっておりまして、1日中ろくすっぽ何もできませんでした。月曜はそんな感じであることが多い。

しかし、そんな僕の個人的常態話はここではまったくどうでも良い。まったくそうです。はい。

ただ、昨日僕がそのような状態であったことは、今日の再訪記にぜんぜんまったく無関係、というわけでもなさそう。

というのも、昨日はそのように不如意な状態であったため、「住民たちのイベントを発生させる」だの「ラブレベルを上げる」だの「ソウルをキャッチする」だの「アイテムをゲットする」だの、そういった行為がちゃんちゃら面倒な気分でありました。

どうにかPS3の電源を入れて『moon』を始めても、いつものように先に進めることはできず、お気に入りのムーンMD(電子音寄り)をかけながら、足の(手の)赴くままに、ムーンワールドをうろつきまわっているばかりでした。ひたすら鳥男と賭けをしたり、現実世界でお酒を飲みながら山猫軒に行って食前酒飲んだりね。

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で、1時間以上そんな風に気ままに過ごしていましたら、自分で思っていた以上にムーンワールドという世界に「癒されている」自分を感じた、あるいは癒されていたことを思い出したというべきか。そうか、ここは俺の故郷だったな、と。

何しろ、これまでは久方ぶりに始めた『moon』で何か新しい視点を携えて考察し、20年越しの評文をしたためたる……そんな野心的でしゃちほこばった心情だったので、あまりリラックスした気分でこの再訪を楽しめずにいたのかもしれません。

でも昨日、ムーンワールドを歩き回っていて改めてしみじみ思った。ただ歩き回っていても、じっとしていても、これほど「しっくり」来る世界は何処にもない、とまでは言わないが、そうそうないって。

ここには現実世界と同じく、独自の時間が流れていて、ここで生活を営んでいる愛すべき個性的な住民たちがいて、僕は彼らに主体的に関わっても良いし、関わらなくても良いし、好きな音楽を流しっぱにして歩き回ることができるし、ひとところに留まって沈黙に浸っていることもできる。無理に物語を進める必要もないし、無理にこの世界から出なくたって良い。だけど、やっぱりもうすぐ出なきゃならない。

その時、僕の頭をよぎった作品が2つありました。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 

ひとつは御存知長編小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」。僕は村上春樹作品はけっこう読んでいますが、この作品はとくに好きで、昔からしょっちゅう読み返していました。

「僕」は自分の意識の中に作り出された(同時に自分が創り出した)静かな街の中に入りこみ、住民と交流を持ち、為すべき仕事を得る。しかし、じょじょに「そこは自分が居続けるべき場所ではない」と感じ始めた「僕」は、逡巡を重ねながらも日に日に弱っていく自らの影(その影を失ったら街から出ることはかなわなくなってしまう)とともに、森の奥にある出口へと向かう——

自分の内で、この長編小説中の「街」とムーンワールドはゆるく、しかし確実に結びついているように思います。ムーンワールドは僕にとって、この「世界の終わり」に位置する世界なのかもしれません。

自分の意識が作りだしたかの如く馴染み深く、居心地良く、完璧に自閉しているという点で「何か間違っている」という感が拭い難く同居している世界。もちろんゲーム内世界に限らず、そうした世界を誰もが自分の内に持っているように思いますが、僕にとってはたまたまこの『moon』なるメタRPGが、自己内世界親和力が最高に近しい世界だったというわけです。

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もう1つもきっと皆さんよく御存知『どうぶつの森』(以下『どう森』)。

どう森のことは『moon』再プレイ直後からちょくちょく頭をよぎっていました。

『moon』よりもずっと多くの人々に親しまれているこの超メジャー作品、自分はほぼ未プレイでした。初代『どう森』がリリースされたのは、『moon』発売から3年後、2001年のことです。その時に少しだけプレイしたのですが、強い閉塞感(なんとなくイヤな感じ)を覚えてすぐ止めてしまったことを憶えています。『moon』と違って、アイロニーも毒気のないキュートな箱庭世界を「もうひとつの世界」として自分の内に受け入れることに抵抗があったのかもしれません。

しかし、『moon』同様(ゲームを起動していない時もゲーム内における時間が流れているという意味では『moon』以上に)「その世界独自の時間」が流れていて、その中で住民たちと交流をし、アイテムを集めながらごく個人的な生活を営むことができる箱庭コミュニケーション世界——『どうぶつの森』は、今やそのジャンル(名称忘却)で、他の追随を許さない作品として君臨しています。

さて、現在『どう森』をプレイしている人々が感じているようなことを、僕は当時、そして今も変わらず『moon』に対して感じているのではないか?

そして『どう森』という怪物ゲームが生まれた背景には『moon』の存在もあるいは無関係ではないのではあるまいか? そんな認識を携えて『どう森』を改めてプレイしてみたらムーンワールドの新しい扉が見出されるかもしれない——。 

そう思った僕は、さっそく傘をさして近所のゲオまで『とびだせ どうぶつの森』(3DS)を買いに行ったのです。ポイントが溜まっていたので、ほとんど現金を使わずに購入することができました。ありがとう、Lueca。

それはさて置き、とび森を本格的に始めたら、この記事も「ムーンワールド再訪記」ではなくて、「どうぶつの森 生活日誌」になってしまうかもしれない。それはちょっと避けたい。なので、とび森はちょこちょこプレイするに留めておきたいと思います。