めくるめくメルク丸novels

行為は無為よりも、ほんの少しだけ優れてゐる。(バガヴァッド・ギーター)

6月の、土曜日の心況

※当ブログを「かさ増し」する為、とりたてて内容のない日誌(のような記述)も挿入してみます。

午前7時半起床。窓の外はばりばりに曇っている。午後からは雨が降ると聞いた。やっぱ梅雨。今日は店為事だが、おそらくかなり閑だろう。

喫茶店は雨の影響を「もろ」に受ける商売形態だ。「雨の日に喫茶店に行きたくなる」……みたいな浪漫を抱いた方もたまにはいらっしゃるけど(僕もたまにそういう心持ちで雨の日、喫茶店に赴くことがまれにある)、飲食店の中でも「嗜好」の要素がとくに強い純喫茶は、よほどの人気店(コメダ珈琲とか)でもない限り、6月は「がらん」としていることが多い。

しかし、閑閑であろうと忙忙であろうと、店を始めた7年前から、店を開ける日はほぼ1日中、店のことを考えている。開ける前も、閉めてからも「ほぼ店しか頭にない」状態と言って良い。そういうわけで、今もここに書けることはあまりなさそう。あと30分もしたら出かけないといけないし。時間と時間の間に隙間がない。マリオテニスエースのことも、読みかけの小説のことも、これからの人生のことも、今は——今だけは、すっかり宙に浮いている。静かな場所でクラシックを聴きながら午後を過ごしたい人の心と自分の心とコーヒー。それをぴたりと同化させようと試みながら、徒歩30分の仕事場へ向かう時、

己の心の状態はけっしてわるくない。むしろ、とても自分らしいと言える。限定された期間の、有り難き僥倖である。今日も全存在にとって、心やすい1日でありますよう(祈)。

頼むからマリテニエース買わせないでくれ

唐突だが、今日は何の日か?

そう、『マリオテニス エース』(Switch)の発売日である。

マリオテニス エース - Switch

マリオテニス エース - Switch

 

ぶちまけた話、今、俺はこのゲームが猛烈に欲しい。起き抜けからこのゲームのことを考えてそわそわ悶々している自分を認めないわけにはいかない。

こうなったら直接DL(ダウンロードです、念のため)しちまうか……とも考えたのだが、今後、ハマりすぎて日常生活に支障を来たしそうになった時、「GEOに売る」という選択肢を考えると、たとえ購入するとしてもパッケージ版にしないわけにはいけない。だからDLはNGだ。

先日行われた先行体験版では、たった数時間のプレイにもかかわらず、予想以上に熱い時間を過ごした(余談だが、どうして先行体験を発売日から1ヶ月近くも離して行ったのだろうか?発売日直前の方がずっと体験者の購買意欲をかき立てたと思うのだが……テストプレイ/デバッグ目的だったのか? 釈然としない)。

さて、今作。もはや「テニスゲーム」の領域を越えてしまっている(いや、以前から越えていたのだが「より越えた」というのがより正しい物言いかもしれない)。

先行プレイした多くの方が、Twitteなどで「めっちゃ面白いが、もはや対戦格闘ゲームだろ、これ」などと評しているのを多々目にした。

「もはや対戦格闘ゲーム」。それはいったいどういうことなのか?

たしかに、僕がこのマリオテニスエースをプレイしていた時、もっとも近しく感じたのは所謂「テニス」ではなかった。それは昨年発売され、今なお盛り上がっている比類なき(という物言いは今後も多用すると思うが、それは愛読する某ゲー道ブログの影響であるということはあらかじめ述べておくべきだろう)対戦格闘ゲーム『ARMS』であった。このゲームには自分としては奇妙なほどのめり込んだし、リアル大会にも参戦したし、今なお続けている希有な「対戦格闘ゲーム」である。それは認めなきゃならない。

ARMS - Switch

ARMS - Switch

 

 『ARMS』はテニスとボクシングの本質部分を「格闘ゲーム」という形でパッケージングすることに成功したじつに希有なゲームと思っている。そして、うまく説明できないくらい面白い。ARMSの比類なき面白さについてはまた別の機会に述べたいと思ってる。あるいは述べないかもしれないが。

さて雑記らしく、またまた話は変わるのだけど、WiiUでリリースされた『Wii Sports Club』というゲームをプレイした方はいらっしゃるだろうか?(たぶんいらっしゃらないと踏んでいるのだが)

Wii Sports Club - Wii U

Wii Sports Club - Wii U

 

このゲームに収められている「テニス」は、ずいぶん長いこと僕の友だちだった。少なくとも3年くらいは断続的にやってたかもしれない。週末、待ち合わせてテニスするOLネッ友(都内在住)もできたよ。それはまあ、さて置き。

「Wiiリモコンをラケットに見立て、振り合う」ただそれだけのゲームなのに、そこには確かに「テニス」の愉しさの本質がぎゅっと凝縮されていたように思う。僕は『Wii Sports Club』のテニスこそ、FC(ファミリーコンピューターです、一応)『テニス』の正当進化作と信じている。今は過疎ってて、プレイする意欲はあまり湧かないけど。

この『Wii Sports Club』のテニスに比べて、『マリオテニス エース』の操作はずっと複雑だ。初めてプレイする方は、全ての操作を憶えるだけでもまる1日くらいかかりそう。さらにそれが「身に付く」には、日々、果て無き研鑽を積む必要があるだろう。

そうして『マリオテニスエース』をときに愉しく、ときに苦しみながらプレイして得られるものはいったい何か?

優越感?

「己はこのゲームにのめりこんでいる」という熱い濃い実感?

「対戦」という媒介を通じた他者とのコミュニケーション?

腕を上げ、ランキングで順位が上がっていくという成長/承認欲求の満たされ?

うん、それらはじつに魅力的な要素たちだ。日常生活で簡単に得られるものではない。

しかし、僕はこの『マリオテニス エース』に費やすであろう時間をまだ見ぬ未知のゲームたち、あるいはこれまで見過ごしてきたゲームたちをディグる時間に費やしたいと思っている。たとえ、それらが肌に合おうと合うまいと。

だから。今作『マリオテニス エース』は購入しないことになりそう。意識的スルーってやつ。時間は有限であるから。生は幽玄であるから。それが結論か?

いや、そんなこんなはこの際ばっさりと払いのけ、今から近所のGEOにマリオテニスエース買い求めに行くべきしれない。

だって今は今しかないのだから、熱あるうちに、そのボールをスマッシュ!するべきなのかもしれない。

本当にそうなのか? ああ、今はまだ全然わからぬ。恐るべし、マリテニエース。後生だから、俺に買わせないでくれ。

焼酎色々お見舞い

こんばんは。少々ご無沙汰しております。

最近あんなことやこんなことなどありましたが、そちらはお元気でしょうか? 

時季は梅雨まっさかり、ですね。今朝は奇跡的に晴れ渡っておりました。

が、今はすでにひと雨きそうな気配がずぶずぶ漂ってゐる東京は多摩地区です。

ちなみに僕はここんとこ、心身ともに重ための風邪をひいていたような感じでして……。

何でしょう、「精神的寝たきり」みたいな日々を送っていたような気がします。

それで、昨晩ふと思いついて、自分が以前記した雑記ブログをずいぶんたくさん読み漁っていたら、

「なんか……もっとちゃんとしよ。」みたいな気分がふつふつ湧き上がってきた。

それというのも、僕が対外的に(あるいは内省的に)できることと言えば、

「記すこと(何であれ、どこであれ)」。それだけみたいなものなので。

で、2018年・現在の僕にはここしか記せる場所は(ほぼ)ないのだから、

たとえ内容のない投稿であっても、誰が読んでくれてもくれなくても、喜ばれても疎まれても、眉をしかめられても誉めそやされても、心のツッコミを烈しく入れられても、やんわりスルーされても、

諾々とでも唯々日々更新していきたい。そんなようなことを改めて思ったのでした。過去の自分の行為から改めて教えられることも時にはあるようです。

はいっ。

そういうわけで、自らの記述的志気を鼓舞するために、外面的にも内面的にも少しずつリニュアルを重ねながら、マイペースに続けていこう。そう思った所存です。

(さっそくブログタイトルをちょっとばかり変えてみました。そういうところ、きわめてフレキシブルな性格なのです。よかれあしかれ)

今後ともよろしくメルク丸。

『KUBO/二本の弦の秘密』を観た

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もっと仰々しいタイトルもいくつか考えたのですが、やっぱりこれで。

『KUBO』を観た。こちらの期待を遥かに越える、まごうことなき傑作であった。

もはやこれで済ませても良いような気も……でもせっかくなのでもう少し書きます。

でも、このブログを読んでくれている有り難い方々にはこの世紀の傑作をぜひ観て頂きたいと密かに所望している私なので、物語上の所謂「ネタバレ」っぽいことを記すのは控えようと思います。この「物語」が短いながらもたいへん素晴らしい作品なので、その内奥に触れられないのはいささか残念ではありますが。

今作は粗筋のみを述べると、表面上は古典的な冒険譚・成長物語のようにも見えます。

三味線と語りの得意な主人公・KUBOは母親と平穏な毎日を送っていたのだが、死者を呼び戻す祭りの日、母との約束を破ってしまうことで父母の宿敵姉妹と遭遇する。主人公の出生にまつわるある種の呪い。その呪いを自らの手で絶つことは彼の宿命でもあった。

命からがら村から逃れ、出会った仲間たち(サルとクワガタw)と旅するKUBOは、仲間たちと心を通じ合わせながら、伝説の武具(×3)を集め、親の仇——その根源的存在「月の帝」とついに対峙する……。

ざっくり要約すると、そんなところでしょうか。

このような古来より語り継がれてきたような古典的物語が絶妙に、巧妙にアップデートされている構造はピクサー作品にも通底するものを感じます。そういえば今作、先日観賞したピクサー映画『リメンバー・ミー』に通じるところが幾分あるような。公開時期もかなり近かったし、計らずもピクサーとライカ(今作の製作スタジオ)何か相通じるところがあったのでしょうか。

『リメンバー・ミー』を観た - めくるめくメルク丸

『リメンバー・ミー』は、ピクサー苦手な僕も褒めざるを得ないほど良い映画だったけど、『KUBO』を観た後ではかなり色あせて感じてしまうのも事実。あれは観賞後、もう1度観たいとは思わなかったからな。『KUBO』はこの先何度でも観たいぞっ。

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物語に関してはこれ以上触れないでおくとして、のっけから驚かされたのがその「絵(映像)作り」。「ストップ・モーション・アニメーション(約3秒の映像に1週間!の撮影期間を要するそうです)」という手法の説明を読んでも、実際にどうやってあのようにして融通無碍かつ美麗な映像を作っているのか? 全くわからないし、想像/分析する気にもあまりなれないのですが、これがクレイアニメでもCGアニメでも実写混ぜアニメでも手書きアニメでも、まあ、手法はなんでも佳き哉。いや、良くはないのだけど大事なことは手法や製作期間じゃない。

そこに「表現された世界」にのっけから心底驚かされたのです。完璧すぎる。粋すぎる。心と眼にすんなり同調する。そこに1片の無駄はない。必要な画のみがある。そして物語のキーであるKUBOの三味線からは、物語そのものをぐんぐん前に進ませるような素敵な音楽が紡がれる。

最高の絵(映像)と、最高の音楽と、最高の物語。「最高最高」言うの厭なのですけどね。「最高最高は作り手に対して失礼だろ」とは最近よく思うことで。「どう最高なのか?」を書かなきゃいかんだろ、と。でも……。

『KUBO』を観た。そしてそれは自分にとって最高であった。今日は単純明快に始めて、単純明快に締めます。お許しあれ。機会あれば、次はもう少し冷静かつ有用な感想文が書けると良いのですが。もしこの文を読んで、ちょっとでも『KUBO』が気になったらぜひご観賞ください。きっと後悔はしないと思う。君の心の弦が少しでも震えたら嬉しや。

ムーンワールド再訪記(13)現実とゲーム

今朝、「現実」と「ゲーム」の違いについてふと思いを馳せてみた。

その違いを端的に言うと、ゲームは多かれ少なかれ自らの意思で「始める」世界であるのに対し、

現実は自分の意思にかかわらず、すでにして「始まっていた」世界だ。

ゲームにおいて、体験する世界は(ある範囲内から)選べるが、現実は選べない。或るハードの電源ボタンを入れ、或るディスクを挿入する暇もなく、気付いたら我々は否応なしに「ここ」にいた。キャラクターメイキングもなく、キーコンフィグもなく、画面コントラストさえ変更できずに。無論、リセットボタンもない(「ある」と仰る方もいらっしゃるかもしれないが、ここでは「ない」としておく)。

ゲームにおいて、プレイヤーは「自己」として主体的に(あるいは受動的に)その世界に関わることができる。そこは他の娯楽(とは言いたくないが)ジャンル——たとえば映画や小説やマンガ——とゲームを分かつ特徴、というか本質部分だろう。前者において、我々は観客/聞き手となることを余儀なくされる。

そういう意味では、スポーツとゲームはかなり似ている。「e-Sports」なんて言葉が飛び交う現代では言うまでもないことだが。しかし、所謂スポーツにはボールとプレイグラウンドはあっても、移入する「身体」は存在しない。動かすのはあくまでも自分の身体である。自分の肉体としてゲームに参加する。それってやっぱり現実世界——人生と同じなのではないか?

ゲームにおいて、我々は自分の肉体ではない存在に自己投影し、「動ける」。たとえ、できることが選択肢の横に表示されている矢印を上下させるだけだとしても。狭い迷路の中で黄色い物体にゴマのようなエサを食べさせるだけだとしても。キノコを食べてひたすら右端を目指すだけだとしても。そうやって僕はこれまでゲームの中で、選び、動かし、動いてきたのだった。

我々は自ら「選ぶ」こと、自らの意思で「動く」ことをこの現実世界、すなわち「選べなかった世界」で体験するために、ゲーム(なるもの)をやっているのだろうか。そうかもしれない。あるいはそうじゃないかもしれない。だって、それなら現実世界だってそうじゃないか? そうかもしれない。

ゲームは遊戯だろうか?否。

ゲームは仮想体験だろうか?否。

ゲームは代替世界だろうか?否。

ゲームは現実に並行するもうひとつの世界であろうか?……留保。 

僕は大人になってから、現実世界とゲーム世界をよりはっきりと区別するようになったようだ。その変化は、22歳の時に『moon』から受け取ったメッセージとわりと呼応しているように思う。

「人生はRPGみたいなものだ」したり顔で言ってのける人がまれにいる。

そんな物言いが昔からあまり好きになれなかった。でも、たしかに人生とRPGは重なるところがあるのかもしれない。むしろそのくらいに緩く捉えておいた方が人生の本質に、あるいはゲームの本質に近づけるのかもしれない。わからない。

余談だが、ゲームの側が現実の側に対して「意識的に」干渉してくるゲームは、どのくらいあるだろう?

『moon』は間違いなくそういうゲームだ。また、『moon』に影響を受けた僕の知らないメタRPGにはそうしたものがきっと多々あるだろう。昨今、インディーゲームの類にもその手のものがたくさんあった。未だ強く印象に残っている『Undertale』もそういうゲームだった。未プレイだが『One Shot』もそんな感じだろう。有名作『ダンガンロンパ』もそんな感じで長い幕を閉じたと聞いた。

しかし、それらゲームを所謂「メタ」っていう枕詞に括るのはもはや時代遅れというか、何を言ったことにもならないはずだ。大事なことは、メタだろうとリアルだろうとフェイクだろうと、こちらがそのゲームから何を受け取ったか? いつだってそれだけだ。

それに『moon』は今や「メタRPG」でも問題作でもなく、ふつーに「古典名作」と言って良いはずだろう。そして、僕はまだまだこのムーンワールドに立ち帰ってくることになる。この世界から受け取れるラブとソウルがきっとまだまだたくさんあるはずだ。

よし、『moon』やろ。